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君と遠回りの恋を  作者: よる


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1/1

第1章 雨に日にあった女


「別れよう」


人生で何度聞いても慣れない言葉というものがある。


その代表格が、今まさに俺の目の前で発せられた。


藤崎悠真、二十七歳。


職業、会社員。


趣味、特になし。


特技、空気を読むこと。


そして本日、恋人を失った。


「……え?」


思わず間抜けな声が出た。


目の前に座っている彼女、佐々木香織は、申し訳なさそうに視線を落としている。


「だから、別れたいの」


「いや、それは聞こえた。聞こえたけど、理由は?」


「なんか……違うんだよね」


なんか。


なんか、である。


二年間付き合った男に対して、なんか。


俺の人生二十七年分の努力が、たった三文字で片付けられた気がした。


「俺、何かした?」


「そういうところ」


「どういうところ?」


「すぐ理由を聞くところ」


「いや、理由くらい聞くだろ!」


声が少し大きくなった。


隣の席のカップルがこちらを見た。


俺は慌てて頭を下げる。


香織は小さくため息をついた。


「悠真って優しいんだけどね」


「うん」


「優しすぎるというか」


「うん」


「刺激がないんだよね」


「……うん?」


刺激。


どうやら俺は、恋人にとって炭酸の抜けたコーラのような存在だったらしい。


「ごめんね」


そう言って彼女は席を立った。


俺は引き止めなかった。


いや、引き止められなかった。


テーブルには、ほとんど手をつけていないアイスコーヒーが残っている。


氷が溶けて、薄くなっていた。


まるで俺の存在価値のようだ。


……いや、そこまで言う必要はない。


俺は会計を済ませ、店を出た。


外は雨だった。


傘を持っていない。


今日は朝から最悪だった。


会社では上司に怒られ、昼食の唐揚げ弁当は床に落とし、帰りには彼女に振られた。


神様というものが存在するなら、一度くらい俺に謝罪してほしい。


そんなことを考えながら、俺は駅とは反対方向へ歩き始めた。


理由はない。


ただ、まっすぐ帰る気になれなかった。


そして、五分ほど歩いたところで、小さな看板を見つけた。


『喫茶店 雨宿り』


なんとも都合のいい名前だった。


店の前には、手書きの看板が出ている。


『本日のおすすめ

唐揚げ定食 850円』


俺は立ち止まった。


唐揚げ。


今日、床に落とした唐揚げ。


失恋した男が、再び唐揚げに救いを求める。


悪くない。


俺はドアを開けた。


カラン、コロン。


小さなベルが鳴る。


「いらっしゃいませー」


カウンターの奥から、女性の声がした。


店内は思っていたよりも狭かった。


木目調のテーブルが四つ。


カウンター席が五つ。


壁には古い時計と、どこかの海辺で撮られた写真が飾られている。


そして、カウンターの向こうにいたのが彼女だった。


黒髪のセミロング。


白いシャツに黒いエプロン。


年齢は二十五歳前後だろうか。


整った顔立ちだが、表情は少し眠そうだった。


「お好きな席どうぞ」


「あ、はい」


俺は窓際の席に座った。


彼女は水を持ってくると、メニューを置いた。


「ご注文お決まりになりましたら呼んでください」


「あ、唐揚げ定食で」


「はい。唐揚げ定食一つ」


彼女は厨房へ戻っていった。


俺は窓の外を眺めた。


雨はまだ降っている。


スマートフォンを見ると、香織からメッセージが届いていた。


『今日はありがとう。元気でね』


ありがとう。


何に対してだろう。


二年間付き合ってくれてありがとう、ということだろうか。


それとも、別れ話を聞いてくれてありがとう、ということだろうか。


どちらにしても、今は見たくなかった。


俺はスマートフォンを伏せた。


しばらくすると、唐揚げ定食が運ばれてきた。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


大きな唐揚げが五個。


味噌汁とご飯、漬物がついている。


見た目はかなり美味しそうだった。


俺が箸を持った、そのとき。


「失恋しました?」


「……え?」


顔を上げると、先ほどの女性がカウンター越しにこちらを見ていた。


「いや、なんで?」


「顔に書いてあります」


「そんなに分かりやすい?」


「はい。『人生終わりました』って顔してます」


「そこまで?」


「あと、スマホを裏返して置く人は、大体ろくなことがありません」


「偏見じゃない?」


「経験則です」


彼女は真顔だった。


俺は少し笑ってしまった。


「まあ、失恋したのは事実だけど」


「やっぱり」


「そんなに嬉しそうに言わなくても」


「別に嬉しくないですよ。人の不幸でご飯を食べる趣味はありません」


「じゃあ、何の趣味があるの?」


「人の恋愛事情を聞く趣味です」


「同じようなものじゃないか」


彼女は少しだけ口元を緩めた。


「ちなみに、どっちから別れを切り出したんですか?」


「相手」


「理由は?」


「刺激がないって」


「ああ」


彼女は納得したように頷いた。


「なるほど」


「なるほどって何?」


「よくあるやつですね」


「よくあるの?」


「ありますよ。優しい人と付き合って、優しさに慣れて、それを当たり前だと思って、刺激が欲しくなるんです」


「……詳しいね」


「恋愛評論家なので」


「初めて聞いた職業だ」


「自称です」


自称かよ。


俺は唐揚げを一つ口に運んだ。


うまい。


驚くほどにうまい。


外はカリッとしていて、中は柔らかい。


醤油と生姜の香りが口いっぱいに広がった。


「これ、美味しいね」


「ありがとうございます」


「料理してる人が作ったの?」


「私です」


「え?」


「何ですか、その反応」


「いや、普通に美味しかったから」


「普通に、は余計です」


彼女は不満そうに頬を膨らませた。


その表情が、妙に子供っぽくて面白かった。


「この店、あなたがやってるの?」


「母の店です。今は私が手伝ってます」


「へえ」


「母が旅行中なので、しばらく店番です」


「一人で?」


「昼間は私一人です。夜は別の人が来ます」


「大変そうだね」


「まあ、慣れてますから」


そう言いながら、彼女はカウンターの中にある時計を見た。


「ところで、お兄さん」


「俺?」


「はい。失恋したお兄さん」


「名前くらい聞いてくれない?」


「そうですね」


彼女は少し考えたあと、言った。


「私は桜井美月です」


「藤崎悠真」


「藤崎さんですね」


「うん」


「じゃあ、藤崎さん。失恋記念に一つアドバイスしてあげます」


「何?」


美月は胸を張った。


「次の恋愛では、唐揚げを落とさない人を選びましょう」


「それ、今日の昼の話?」


「違うんですか?」


「何で知ってるんだよ」


「顔に書いてあります」


「もうその設定いいから!」


店内に俺の声が響いた。


美月は楽しそうに笑った。


その笑顔を見て、俺は少しだけ気分が軽くなった。


結局、俺は唐揚げ定食を完食した。


会計を済ませ、店を出ようとしたときだった。


「藤崎さん」


呼び止められて振り返る。


美月はカウンターの奥から、小さな紙袋を持ってきた。


「これ、持っていってください」


「何?」


「余った唐揚げです」


「いや、余ったって……」


「試作品なので。味は保証しません」


「さっき美味しいって言ったんだけど」


「それはそれです」


紙袋を受け取ると、ほんのり温かかった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


俺はドアを開けた。


外の雨は、さっきよりも弱くなっていた。


「藤崎さん」


もう一度、彼女が呼ぶ。


「はい?」


「次は、彼女に振られる前に来てくださいね」


「もう振られたんだけど」


「だから、次の彼女に振られる前です」


「縁起でもないこと言うなよ!」


美月は笑っていた。


俺も笑っていた。


店を出て、紙袋を覗く。


唐揚げが三つ入っていた。


そのうち一つを口に運ぶ。


やっぱり美味しかった。


その夜、家に帰った俺は、久しぶりにちゃんと夕食を食べた。


そして、眠る前にふと思い出した。


桜井美月。


不思議な女性だった。


口は悪いし、遠慮もない。


けれど、なぜか嫌な気持ちにはならなかった。


スマートフォンを開く。


香織とのメッセージ画面は、まだ残っている。


俺はしばらく眺めたあと、スマートフォンを閉じた。


そして、明日からどうしようかと考えた。


新しい趣味でも探そうか。


何か資格でも取ろうか。


そういえば、最近まともに友人とも会っていない。


考え始めると、意外とやることは多かった。


ただ、一つだけ気になることがあった。


あの喫茶店の唐揚げ定食は、毎日あるのだろうか。


……いや、別に唐揚げが目当てではない。


本当に。


翌朝、俺は出勤前に財布の中身を確認した。


小銭が少しと、千円札が二枚。


そして、昨日もらった紙袋に貼られていた小さなシール。


そこには、手書きでこう書かれていた。


『雨が降ったら、またどうぞ。』


その下に、小さな文字があった。


『晴れてても歓迎します。』


俺は思わず笑った。


どうやら、しばらく通う場所ができたらしい。


このときの俺は、まだ知らなかった。


この小さな喫茶店で出会う人たちが、俺の日常を大きく変えていくことを。


そして、あの無愛想な女性が、俺の人生で一番面倒くさくて、一番大切な存在になることを。


ただ一つ、確かなことがある。


俺はこの日、二年間付き合った彼女を失った。


そして同時に、これから始まる長い物語の入口に立っていた。

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