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魔女は、最初で最後の旅に出る  作者: イメヤシクサ
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第20話

 ベルフルール館へ着いた頃には、空に夜の色が混じり始めていた。


 エルシアが鉄の鍵で玄関を開ける。半透明のルルは先に中へ滑り込み、誰もいない広間を見回してから、丸い体を小さく弾ませた。


「帰った」


「うん。ただいま」


 庭から、いつもの歌が聞こえた。同じ旋律を同じ速さで繰り返す、名も知らない死者の歌だった。


 エルシアは革の鞄を下ろした。事件はまだ終わっていない。けれど、それを終わらせるために走っているのは、もう彼女ではなかった。


 *


「隊長、少し休んでください」


 警備隊の詰所で、若い隊員が三度目のあくびを噛み殺しながら言った。


「その言葉は、まず自分に使え」


 ラウルは椅子に座らず、取調べ机の前に立った。向かいにいる盗賊は一人。まだ若い書記見習いで、指には長くペンを握っていた跡が残っている。


「高価な薬草を依頼人へ渡した。そこまでは聞いた。誰に、いつ、ほかに何を渡した?」


 若者は膝の上で両手を握った。


「ベネディクト神官です。帳面を写す仕事を回すと言われて……最初は、床の下を通れるか試すだけだと。薬草と、盗んだ物の一部を渡しました」


「番人は?」


「知りません。俺は、館へ行っていない」


 ラウルは否定も追及も急がず、時刻、受け渡した場所、品物の特徴を一つずつ聞いた。若者が同じ答えを繰り返せるか確かめ、書記役の隊員に読み上げさせる。


「これが、おまえの供述で間違いないな」


 若者はしばらく紙を見つめ、うなずいた。


 書記見習いだった若者は、震える手で自分の名と日付を書き入れた。ラウルはその場にいた隊員にも時刻を記させ、最初の供述と食い違う箇所を余白に書き留めた。都合の悪い部分を消せば、供述全体まで信用できなくなる。


 そこで初めて、ラウルは椅子へ腰を下ろした。


 *


 翌朝、ラウルは神殿側の立会人とともに、ベネディクトの自室へ入った。


 石床には焼けた術の線が残り、棚の一部は黒く焦げている。回廊でエルシアとベネディクトを見かけた神官は、魔女が先に立ち去ったと証言した。火事を知らせた若い神官も、警鐘が鳴るまでエルシアが部屋へ戻る姿は見ていないと話した。


「火が出たのは、二人が別れて間もなくです」


「言葉を交わした時刻と、警鐘の時刻を記録してください」


 ラウルはそれだけ答えた。


 焼け残った棚を動かすと、壁との隙間から包みが見つかった。中には、商家の印が入った銀器と、総督官邸の封が残る薬草箱がある。どちらも被害届に特徴が記されていた品だった。


 床の二つの印も調べた。扉側には、机側より先に作動したことを示す強い焦げ跡があり、後から机側を走った火と衝突した跡も残っている。外から火を送り込んだ跡はない。ラウルは魔術に詳しい神官の説明を聞き、要点を自分にも分かる言葉で捜査記録に書き留めた。


 神殿の立会人は顔を伏せた。


「大神殿として、調査に協力します。彼一人の罪を隠すつもりはありません」


「助かります。救護所と共同食堂の仕事まで止める必要はありません」


 盗品は警備隊が記録し、神殿側と一つずつ照合した。燃えた部屋に、魔女が火を放った証拠はなかった。


 部屋を出ると、遠くで昼の鐘が鳴った。救護所には今日も怪我人が入り、共同食堂では寄進されたパンが切り分けられている。一人の罪を調べる間も、神殿の仕事は続いていた。


 *


 都市参事会の治安担当は、報告の途中で二度ペンを止めた。


「盗難は、商家二軒と総督官邸の保管庫。逮捕した者は一人、指示したのはベネディクト神官。そういうことですね」


「はい。館の塀と屋根の損壊も同じ事件に加えてください。襲撃した番人は二体です。燃え残った羊皮紙、販売記録、盗賊の供述、神殿で見つかった盗品がつながっています」


「神官の死は?」


「自室に仕掛けた火の術の誤作動です。エルシアは先に神殿を出ています。彼女の情報は捜査の助けになりましたが、逮捕も捜索も警備隊が行いました」


「裏付けはありますか」


 ラウルは若者の供述、二人の神官の証言、盗品と被害届の照合記録を順に卓へ置いた。治安担当は一つ読むたび、報告の該当箇所に小さな印をつける。魔女がそう言った、という一文だけでは、印は増えなかった。


 治安担当は、被害記録と証言をもう一度並べた。それから事件名、被害、関係者、回収した品、死の経緯を書き、参事会の印を押す。


「これで正式な事件記録にします。総督にも送ります」


 *


 封をされた報告書が総督官邸へ届いたのは、その日の午後だった。


 ユリウス・ヴァルトは最後まで読み終えると、初めて「エルシア」という名のところで指を止めた。


「盗賊を捕らえたのは警備隊。事件を記録したのは参事会。そして、この魔女は必要な事実だけを渡して、手柄を求めていない」


 そばにいた書記がうなずく。


「次に彼女の名が正式な報告書に記された時は、私にも回してください」


 総督は報告書を閉じた。その関心は、そこで初めて生まれた。


 *


 事件が解決して数日後、ベルフルール館の庭には石を打つ音が響いた。


 ラウルは崩れた塀に新しい石を組み、すき間に丁寧に漆喰を詰めている。ルルは足元で薄く広がり、槌が落ちるたびに体の縁を震わせた。


「前より、かたい?」


「少なくとも、私が押したくらいでは崩れない」


「ルルも押す」


「乾いてからにしてください」


 ルルは伸ばしかけた体を、すぐ丸く戻した。


 それからラウルは、ときどき薪や石鹸を届けた。エルシアは足りない物だけ受け取り、まだある物は笑って断った。


「ろうそくはあります。石鹸は、ありがたく」


「分かりました。次は先に聞きます」


 暮らしに必要なやり取りは、それくらいでよかった。


 広場で旅芝居を見るほか、夜には一人と一匹で宿屋の前まで歩くことも増えた。扉の向こうから流れるハープの音を、冷え始めた通りで聞く。


「音、壁を抜ける。でも盗まない」


「そうだね。これは追いかけなくてよさそう」


 客たちの話に、北の町には今にも動き出しそうな木彫りを作る職人がいる、という噂が混じった。けれど今夜は、弦の音のほうが長く残った。


 *


 初冬。修復された塀の上へ、白い霜が薄く降りた。


 その内側で、半透明のルルが冷えた石を避けてエルシアの靴へ寄る。庭の奥では、名も知らない一人の死者が、いつもの旋律に合わせて淡く舞っていた。呼びかけには答えず、境界を越えず、同じ記憶を静かに繰り返している。


「寒いね。中へ戻ろうか」


「ルル、あったかいところに戻る」


 一人の魔女と、一匹のスライムと、名も知らない一人の死者。


 事件の終わった館で、その静かな暮らしはまた冬を迎えた。

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