第1話
山中の工房の煙突が、杉の梢に隠れて見えなくなった。
エルシアは街道の曲がり角で一度だけ足を止めた。引き返すつもりはない。ただ、見えなくなる瞬間くらいは覚えておこうと思ったのだ。
風がマントの裾を揺らす。革の鞄には着替えと薬草、師から受け継いだ記録。留め金の裏には、古い魔女の印が刻まれている。かつては同じ印を持つ者が何人もいたらしい。今、それを携えて山を下りるのは、十五、六歳ほどにしか見えない小柄な少女ひとりだった。
師は、世界を自分の目で見てきなさいと言った。
何を見るべきかも、見たあとにどう答えるべきかも言わなかった。
「ずいぶん広い宿題だね」
返事はなく、杉の葉が乾いた音を立てた。
リーネ杉街道は、山腹を縫うように続いていた。古い杉は二人でも抱えきれないほど太く、その根に押し上げられた石畳が、ところどころ波のようにうねっている。石の角は荷車の車輪と旅人の靴に削られ、白く丸くなっていた。
新しい道ではない。けれど、古いというだけで捨てられた道でもない。
午前のうちに、香辛料の匂いを漂わせる隊商とすれ違った。鈴を鳴らす荷馬の後ろで、御者が片手を上げる。エルシアも同じように返した。
昼前には、泥を跳ね上げて走る伝令が来た。
「この先、道は崩れてないか?」
馬を止める時間も惜しいらしく、声だけが先に飛んでくる。
「少なくとも、私が歩いたところまでは無事だよ」
「それはどこまでだ?」
エルシアは振り返った。杉並木が曲がり、工房へ続く山道はもう見えない。
「私の旅の、最初のところまで」
伝令は困った顔をしたが、馬は待たなかった。蹄の音が遠ざかってから、エルシアは少し考える。
「距離で答えるべきだったかな」
次はそうしよう、と決めた直後、籠を背負った荷運び人たちに道を尋ねられた。今度は曲がり角を三つと、欠けた道標を一つ使って説明した。たぶん、うまくできた。
昼を過ぎると、街道は長い下りになった。
朝から歩き通した足に、石畳の硬さが残る。エルシアは道を少し外れ、杉の根元へ腰を下ろした。苔は厚く、手のひらで押すと、ひんやりした水気が指の間ににじんだ。
鞄から黒パンを出し、半分だけ食べる。残りを包み直したところで、枝を渡る鳥の声がした。
高く、低く、また高く。
目で追っているうちに、まぶたが重くなった。
夢の中では、手のひらほどの小人たちが枝の間で遊んでいた。杉の実を帽子にし、細い枝をしならせて、次の枝へ飛び移る。一人が着地に失敗し、葉の山へ頭から落ちた。仲間たちは助けるより先に、揺れる葉を見て笑っている。
エルシアが手を伸ばすと、小人たちは一斉に空へ飛んだ。
羽音がした。
目を開ける。
枝から飛び立ったのは、小さな灰色の鳥の群れだった。十羽、二十羽。数える間もなく杉の梢を越え、明るい方角へ流れていく。
「帽子は?」
寝起きの口が、夢の続きを尋ねた。
もちろん返事はない。エルシアは鞄を背負い直し、もうしばらく街道を下った。
やがて、冷たい風が頬を撫でた。さっきまで木漏れ日を落としていた空が、鈍い灰色の雲に塞がれている。山の向こうから盛り上がった雲は、杉の梢を呑み込むほど低い。
土と苔の匂いが濃くなった。
大雨になる。
エルシアは来た道を戻った。少し先へ進めば屋根があるかもしれない。けれど、休む前に見かけた古い雨宿り小屋なら、確実に屋根があった。
「旅の初日に引き返すのは、少し格好がつかないね」
一歩ごとに雲が暗くなる。
「濡れるよりはいいかな」
結論が出た直後、大粒の雨が落ちてきた。
小屋へ駆け込むころには、マントの肩がすっかり濃い色に変わっていた。
街道沿いの雨宿り小屋は、石壁に板屋根を載せただけの古い建物だった。扉はなく、窓もない。三方を壁に囲まれているだけでも、横殴りの雨を避けるには十分だった。
壁際には、先に使った誰かが薪を積んでいた。ただし、どれも湿っている。細い枝を折り、枯れ葉を下へ詰めても、火打ち石の火花は白い煙を吐かせるばかりだった。
ここで夜を明かすことにした。雨脚がいくらか弱まるのを待って、もう一度、薪へ向き直る。
エルシアは枝の一本を手に取る。冷たく湿った表面を親指の爪でこすり、火が移りやすいように細かなささくれを起こした。
指先に、小さな橙色の火が灯る。
大きな力はいらない。雨を追い払う必要も、濡れた薪を一息に乾かす必要もない。枯れ葉の端へ移した火を風から手で守り、細枝へ、少し太い枝へと育てていく。
やがて火は、自分の力で薪を鳴らし始めた。
「あとは任せてもよさそうだね」
炎が、ぱちりと返事をした。
濡れたマントを広げ、湯を沸かす。雨音は屋根を隙間なく叩き、街道を流れる水は石畳の溝を選んで走った。湯気の向こうに見えるのは、向かいの石壁と、自分の鞄だけだ。
明日はどこまで行こう。
最初の町で何を見る。そこにいる人々に、何を尋ねる。
師から渡された記録には、古い誓いと役目が残っている。けれど、これから出会うものへの答えまでは書かれていない。それでいいと思っていた。自分で見て、自分で確かめるための旅なのだから。
薪が一本、内側から崩れた。
その音が消えると、小屋には雨しか残らない。
エルシアは湯呑みを両手で包んだ。工房なら、同じ沈黙の中にも別の誰かがいた。扉の向こうで本を閉じる音や、棚から瓶を取る音がした。
ここにはない。
ひとりで出たのだから、ひとりなのは当然だ。そう思っていたのに、当然のことは、火の前で形を持つと少し冷たかった。
「……静かだね」
今度は炎も返事をしなかった。
夜が深まり、薪をもう一度組み直したころ、雨の向こうから鈴の音が聞こえた。
一つではない。車輪が水を切る音、馬をなだめる声、何人もの足音。やがて小屋の前に、幌をかけた荷車が三台、暗がりから浮かび上がった。
先頭の男が軒下へ駆け込み、エルシアを見る。それから火を見た。濡れた帽子のつばから、水が筋になって落ちている。
「助かった。俺たちも入っていいか?」
荷車の幌から、甘い茶葉とハーブの香りが雨に混じって届いた。
エルシアは火のそばに置いていた鞄を引き寄せ、場所を空ける。
「どうぞ。火はもう、私ひとりには少し大きいから」
男の後ろで、誰かがほっと笑った。
見知らぬ隊商の人々が、雨と一緒に明るい輪の中へ入ってきた。




