表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女は、最初で最後の旅に出る  作者: イメヤシクサ
PR
1/30

第1話

 山中の工房の煙突が、杉の梢に隠れて見えなくなった。


 エルシアは街道の曲がり角で一度だけ足を止めた。引き返すつもりはない。ただ、見えなくなる瞬間くらいは覚えておこうと思ったのだ。


 風がマントの裾を揺らす。革の鞄には着替えと薬草、師から受け継いだ記録。留め金の裏には、古い魔女の印が刻まれている。かつては同じ印を持つ者が何人もいたらしい。今、それを携えて山を下りるのは、十五、六歳ほどにしか見えない小柄な少女ひとりだった。


 師は、世界を自分の目で見てきなさいと言った。


 何を見るべきかも、見たあとにどう答えるべきかも言わなかった。


「ずいぶん広い宿題だね」


 返事はなく、杉の葉が乾いた音を立てた。


 リーネ杉街道は、山腹を縫うように続いていた。古い杉は二人でも抱えきれないほど太く、その根に押し上げられた石畳が、ところどころ波のようにうねっている。石の角は荷車の車輪と旅人の靴に削られ、白く丸くなっていた。


 新しい道ではない。けれど、古いというだけで捨てられた道でもない。


 午前のうちに、香辛料の匂いを漂わせる隊商とすれ違った。鈴を鳴らす荷馬の後ろで、御者が片手を上げる。エルシアも同じように返した。


 昼前には、泥を跳ね上げて走る伝令が来た。


「この先、道は崩れてないか?」


 馬を止める時間も惜しいらしく、声だけが先に飛んでくる。


「少なくとも、私が歩いたところまでは無事だよ」


「それはどこまでだ?」


 エルシアは振り返った。杉並木が曲がり、工房へ続く山道はもう見えない。


「私の旅の、最初のところまで」


 伝令は困った顔をしたが、馬は待たなかった。蹄の音が遠ざかってから、エルシアは少し考える。


「距離で答えるべきだったかな」


 次はそうしよう、と決めた直後、籠を背負った荷運び人たちに道を尋ねられた。今度は曲がり角を三つと、欠けた道標を一つ使って説明した。たぶん、うまくできた。


 昼を過ぎると、街道は長い下りになった。


 朝から歩き通した足に、石畳の硬さが残る。エルシアは道を少し外れ、杉の根元へ腰を下ろした。苔は厚く、手のひらで押すと、ひんやりした水気が指の間ににじんだ。


 鞄から黒パンを出し、半分だけ食べる。残りを包み直したところで、枝を渡る鳥の声がした。


 高く、低く、また高く。


 目で追っているうちに、まぶたが重くなった。


 夢の中では、手のひらほどの小人たちが枝の間で遊んでいた。杉の実を帽子にし、細い枝をしならせて、次の枝へ飛び移る。一人が着地に失敗し、葉の山へ頭から落ちた。仲間たちは助けるより先に、揺れる葉を見て笑っている。


 エルシアが手を伸ばすと、小人たちは一斉に空へ飛んだ。


 羽音がした。


 目を開ける。


 枝から飛び立ったのは、小さな灰色の鳥の群れだった。十羽、二十羽。数える間もなく杉の梢を越え、明るい方角へ流れていく。


「帽子は?」


 寝起きの口が、夢の続きを尋ねた。


 もちろん返事はない。エルシアは鞄を背負い直し、もうしばらく街道を下った。


 やがて、冷たい風が頬を撫でた。さっきまで木漏れ日を落としていた空が、鈍い灰色の雲に塞がれている。山の向こうから盛り上がった雲は、杉の梢を呑み込むほど低い。


 土と苔の匂いが濃くなった。


 大雨になる。


 エルシアは来た道を戻った。少し先へ進めば屋根があるかもしれない。けれど、休む前に見かけた古い雨宿り小屋なら、確実に屋根があった。


「旅の初日に引き返すのは、少し格好がつかないね」


 一歩ごとに雲が暗くなる。


「濡れるよりはいいかな」


 結論が出た直後、大粒の雨が落ちてきた。


 小屋へ駆け込むころには、マントの肩がすっかり濃い色に変わっていた。


 街道沿いの雨宿り小屋は、石壁に板屋根を載せただけの古い建物だった。扉はなく、窓もない。三方を壁に囲まれているだけでも、横殴りの雨を避けるには十分だった。


 壁際には、先に使った誰かが薪を積んでいた。ただし、どれも湿っている。細い枝を折り、枯れ葉を下へ詰めても、火打ち石の火花は白い煙を吐かせるばかりだった。


 ここで夜を明かすことにした。雨脚がいくらか弱まるのを待って、もう一度、薪へ向き直る。


 エルシアは枝の一本を手に取る。冷たく湿った表面を親指の爪でこすり、火が移りやすいように細かなささくれを起こした。


 指先に、小さな橙色の火が灯る。


 大きな力はいらない。雨を追い払う必要も、濡れた薪を一息に乾かす必要もない。枯れ葉の端へ移した火を風から手で守り、細枝へ、少し太い枝へと育てていく。


 やがて火は、自分の力で薪を鳴らし始めた。


「あとは任せてもよさそうだね」


 炎が、ぱちりと返事をした。


 濡れたマントを広げ、湯を沸かす。雨音は屋根を隙間なく叩き、街道を流れる水は石畳の溝を選んで走った。湯気の向こうに見えるのは、向かいの石壁と、自分の鞄だけだ。


 明日はどこまで行こう。


 最初の町で何を見る。そこにいる人々に、何を尋ねる。


 師から渡された記録には、古い誓いと役目が残っている。けれど、これから出会うものへの答えまでは書かれていない。それでいいと思っていた。自分で見て、自分で確かめるための旅なのだから。


 薪が一本、内側から崩れた。


 その音が消えると、小屋には雨しか残らない。


 エルシアは湯呑みを両手で包んだ。工房なら、同じ沈黙の中にも別の誰かがいた。扉の向こうで本を閉じる音や、棚から瓶を取る音がした。


 ここにはない。


 ひとりで出たのだから、ひとりなのは当然だ。そう思っていたのに、当然のことは、火の前で形を持つと少し冷たかった。


「……静かだね」


 今度は炎も返事をしなかった。


 夜が深まり、薪をもう一度組み直したころ、雨の向こうから鈴の音が聞こえた。


 一つではない。車輪が水を切る音、馬をなだめる声、何人もの足音。やがて小屋の前に、幌をかけた荷車が三台、暗がりから浮かび上がった。


 先頭の男が軒下へ駆け込み、エルシアを見る。それから火を見た。濡れた帽子のつばから、水が筋になって落ちている。


「助かった。俺たちも入っていいか?」


 荷車の幌から、甘い茶葉とハーブの香りが雨に混じって届いた。


 エルシアは火のそばに置いていた鞄を引き寄せ、場所を空ける。


「どうぞ。火はもう、私ひとりには少し大きいから」


 男の後ろで、誰かがほっと笑った。


 見知らぬ隊商の人々が、雨と一緒に明るい輪の中へ入ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ