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  大声で自分の名前を呼ばれて視線を上げると、芳亜(ヨシュア)が左右に大きく手を振りながら走ってくるところだった。

 門の前で親友の到着を待っていた僕は、いつも通り元気いっぱいの姿に、思わず口元が綻んだ。

「よーう、レイ!元気そうじゃん」

「君もね、芳亜」

 芳亜はいつも通り、ごく自然に僕を抱きしめる。じんわりとした温かさが、体の中に流れ込んで来る。

 今日の芳亜は先日の威厳に満ちた服装とは違い、生成りのシャツと黒いデニム、ブルーグレーのジャンパー姿のいつもの彼だった。

 その姿を見て、僕は何だか自分の背骨がふにゃふにゃとする感覚を覚えた。緊張が抜けていくのが分かった。

 この屋敷に来てから一週間余り。礼儀正しく僕をお世話してくれる、クリスのAIはとんでもなく優秀なのだ。直ぐにぎこちなさも消え、親しみやすさも増して来た。何の不満もないどころか、快適すぎるぐらいだ。

 でもやはり初めての場所、今まで経験したことのない生活様式、自分でも認識していないほど、ちょっとずつ緊張を強いられていたみたいだ。数日前に会ったばかりの親友を見て、背中に張り付いた硬い石が溶けるような気がした。

「いつもよりも体が硬い気がするぞ」

「そうかな。でも芳亜の癒しの力でリフレッシュしたよ。ありがとう」

 僕の答えにまんざらでもない笑顔を浮かべたが、次の瞬間両手でガッチリと肩を掴まれ、ギョッとした。

「まさか、金持ちたちに嫌な扱いでも受けてんか。それなら、俺がビシッと言ってやる!やっぱり今日も法衣着てくりゃ良かった」

「待って、待って。全くそんなことないから。むしろ良くしてもらい過ぎて、返って緊張しちゃうぐらいなんだよ」

「それなら良いけど。何かあったら、絶対に俺に言えよ。絶対だからな、大体お前は…」

 なぜかお小言が始まりそうになって、僕は慌てて芳亜の背中を押した。

「まずはお屋敷の中へ。お茶の準備ができているから。美味しいお菓子もいっぱい用意してもらったから。ホームのみんなへお土産もあるんだ」

 お菓子と聞いて、甘いものに目がない芳亜の目が輝く。

 初日も手にした金のライオンが咥えた輪っかを、二度ドアに打ち付ける。映画の中で見たことのあるクラシカルな装飾だけど、実は機能自体は現代仕様となっていて、輪っかを打ち付けるとスイッチが押され、屋敷の中に綺麗なベルの音が響く作りになっている。

「ようこそいらっしゃいました。ファーザーヨシュア。当家執事のクリストフと申します」

 ドアを開けたクリスが、胸に手を当てた優雅なお辞儀で僕たちを出迎える。

「…お、お邪魔、します」

 あんぐりと口が空いているのは、クリスの人間離れした美貌に驚いているのだろう。

 すでにサンルームにはお茶が準備済みだ。クリスは僕たちをカウチに座らせ二つのポットを軽々と持ち上げると、いつも通り見事なパフォーマンスでお茶を注いでいく。わずかな音も立てずにカップをテーブルに置くと「それではごゆっくり」と優美なお辞儀を残しクリスは姿を消した。

 初めの頃のクリスは、僕のカップや皿が空になるや否や、電光石火の速さでおかわりをサーブしようと、カウチの上で背筋をピンと伸ばして絶えずこちらの様子を伺っていた。

 ーこれじゃあ、執事として立って待機している時と全く変わらないよ。この時間は、お茶と僕とのおしゃべりを楽しんでよ。

 僕のお願いに文字通り目を白黒させたクリスだったが、今は何とか楽しむように頑張ってくれている、とは思う。少なくとも電光石火の勢いでポットを持ち上げる事はなくなった。でもそれも二人だけの時だ。

 ーいくらあなたの幼馴染と言えども、やはりお客様です。一緒の席に座ってお茶を楽しむ行為は、執事としてプログラムされていません。

 ー僕たちは友達だろ?なら芳亜は友達の友達だ。学習するには今回はいい機会だよ。

 そう説得してみたが、クリスは頑として首を縦には振らず、お互いの妥協案として、お茶の用意だけ済ませて、後は屋敷の仕事に戻ることになった。

「ものすっごく綺麗な顔してんな」

 クリスが去ったのを確認すると、ぼそっと芳亜が呟いた。

「ああ言うのを人間離れって言うんだよな。やっぱりな」

「?何がやっぱりなの?」

「あの執事に関しての驚く情報を手に入れたんだ。聞いて驚くなよ、レイ。彼は…」

「アンドロイド、なんでしょう」

 この瞬間の芳亜の表情は、控え目に言ってもかなりおかしかった。驚きの余りにまん丸に見開いた目と、次に出すべき言葉が消えてしまって、パクパクとしている。

(こう言うのなんて言うんだっけ?鳩が豆鉄砲喰らっただっけ?)

「何だよ、知ってんのかぁ。どんだけレイが驚くかって、楽しみにしてたのにさ」

 俺の楽しみ返せよーと、理不尽な呟きを天井に向かって吐いた。

「で、どうして知ったんだよ。あの人間じゃない外見見て気がついたんか?」

「初めて会った時に、彼が教えてくれたよ」

 再び目を丸くして、芳亜が驚いている。

「秘密って訳でもないんかよ」

 芳亜のぼやきに、僕は曖昧に笑って頷くだけにしておいた。芳亜に説明出来ることはもっとあるけれど、いくら親友相手でも、クリスの許可なしに勝手に話すことは躊躇われた。多分、クリスの学習の件は『ANDROID社』の重要な研究の部分なのだろう。

「うお、なんだこのミルクティーすっごく美味いぞ。これ、紅茶とミルクだけなんだろ」

 初めて僕が口にした時と、全く同じ芳亜の反応が可笑しかった。やっぱりその反応になるよね。

「そうなんだよ。僕も初めて飲んだ時は驚いたよ。でも正真正銘、紅茶とミルクだけなんだって」

「このクッキーも美味い。チョコレートとココナッツのバランスが絶妙だ」

 興奮しながらも、次に可愛い貝の形をしたマドレーヌ。きゅうりのサンドウィッチと、次々と芳亜のお腹の中に消えていく。今日はクリスが、三段のトレイに所狭しとお菓子を並べるのを止めなかったが、じきに芳亜の手が止まった。

「どうしたの?何か気になることでも?」

「いや、こんなに美味いもんを俺だけが食べてるのがな。アイツらにも食べさせたい」

 アイツら、と言うのは、ホームで一緒に暮らす何人もの幼い兄弟姉妹たちだ。僕が美味しいミルクを彼らに飲ませたい、と思ったのと、芳亜は同じことを思っている。

「大丈夫。クリスに頼んで、みんなの分はお土産にしてもらったから」

「本当か!」それが分かった途端、芳亜はもう一枚クッキーを頬張った。

 特別な配慮をしてもらったのだから、当然費用を支払いたい、という僕の申し出に、やはりクリスは頑として首を縦に振らなかった。

 それでは僕の気持ちも収まらないと、食い下がる僕に「では」とクリスが出した条件は、花壇の花苗をクリスと一緒に植える、と言うものだった。

 ー正直、わたしはそこまで植物の世話は得意ではないんだ。庭師は別荘の庭の作り直しのために、数ヶ月先までは帰って来ないだろう。やったことのない事は学習のチャンスだが、失敗して花を枯らす訳にもいかない。

 胸を張って得意げに叩いてみせた。

 ー任せておいて。ホームでは神父様や芳亜と一緒に薬草や野菜を育てていたんだ。僕、結構得意なんだ。

 僕の返事にクリスは真顔で頷いた。表情は全く変わらないが、多分、安心したようだ。

 こんなにも完璧に見えるクリスでも苦手な事があると知って、ニヤニヤとしてしまった。

「今この屋敷には、あの執事とレイ以外、誰がいるんだ?」

「後はお料理してくれるアマンダさん。アンさんって呼んでるんだ」

「え、それだけなのか。この広い屋敷で」

 一面ガラス張りのサンルーフは差し込む日の光で明るく、僕たちを取り囲む緑の葉は艶々と輝いている。

「良いか、レイ。よく聞け」

 お行儀悪く人差し指と親指を舐めていた芳亜は、チラリと周りを見渡してから真剣な顔でこちらを見た。そして僕が身構える間もなく、ありえない発言をした。

「…あのアンドロイドの執事が、主人を殺したんじゃないか、って言う噂があるんだ」

 少し汗ばむぐらいの温度が、一気に冷えた気がした。

「どういう意味?」

「言葉通りだ。もう何ヶ月もシュタイン氏は姿どころか、その動向すら誰も知らない。いくら人嫌いで有名な人物だったとしても、大企業の社長だぞ?おかしいだろう」

「だからクリスが殺したとでも?」

 僕の問いに、芳亜はゆっくりと頷いた。三流推理小説よりも酷い。

「そんな事はないよ。彼はアンドロイドだ。アンドロイドは、システムに逆らえば自動で停止するはずだよ」

「普通は、な。でもシュタイン氏は禁忌を犯そうとしたらしい」

「禁忌?」

完璧なアンドロイド(・・・・・・・・・)を造ろうとした」

「確かにクリスは完璧だよ。親切で真面目でとても綺麗だ。食事だって一緒に出来る」

 僕が造った訳じゃないのに、精一杯クリスの自慢をしてしまった。

 いいや、と芳亜は首を振る。

「心、だよ」

 ここでも、心。

 水面に一滴の黒いインクが落ちて、薄い暗い膜が広がって行く。

「でもAIって学習をするんだろ。学習を続けていけば、心も育つんじゃないの?」

「そうなのかもしれないが、やっぱり人間の心とは違うんだよ。今の技術では、あくまでもプログラミング内の人間の猿真似の域でしかないって話だ」

 同じような台詞をごく最近耳にした。そうだ、あれはクリス自身が言った言葉。

「じゃあ、どうやってシュタインさんはクリスに心を入れようとしたの?そんなの現在の科学力じゃ無理でしょう」

「魔石らしいぞ」

「魔石?」

 思いがけない言葉に戸惑う。

 魔石…って。その名の通り魔力が結晶化したものであり、昔の魔法使いたちは難解な魔法の簡易化や魔力の大幅な底上げに使った、らしい。

 らしい、と言うのは、テクノロジーとは正反対のその単語は、現代世界ではほとんど聞かれることはなくなり、おとぎ話の絵本の中だけの存在だからだ。

 魔法がどんどんと平均化され、その効力が弱まっていくのに合わせ、魔石も姿を減らし、今では国の研究機関か博物館で保管されるのみとなっている。

「まさか!いくら超お金持ちって言っても、そんな簡単に手に入るもんじゃないよね」

「それが、人工魔石らしい。お得意のテクノロジーの分野だろ。この国指折りの頭脳なら、もしかしたら出来ちまうんじゃねえか」

「もしそうだとしても、なぜそんなことを」

「人間って、欲張りだろ。一つ目標を達成して満足だったつもりが、じきにそれ以上の何かをしたくなる。結構良い線のアンドロイドが完成したら、より人間に近づけたくなったとしても、不思議じゃない。完璧を目指すために、皮膚や軟骨を培養して体に使っているって言う噂もあるぐらいだぞ」

 クリスの毛穴ひとつなさそうな滑らかな肌と、何より美しい金色の髪を思い出した。

「…映画の中のマッドサイエンティストみたい。でも、どれもこれも噂話の域なんだよね。科学と魔法って、相性悪いんじゃなかった?そんな簡単に上手くいくのかな?」

 首を傾げながらも一つの思いに行き当たる。

(癒しの使い手で聖職者の芳亜。アンドロイドのクリス。確かに相容れない立場の二人だけど、僕を通して仲良くなれるかも)

 それは人工魔石も、真ん中に何か媒体があれば、魔法と科学の融合もできるかもしれないという可能性。

「そりゃ、本人が行方不明なんだから、確認のしようがない。だから、あの完璧すぎるアンドロイドが怪しいってなるんだ」

 やおら芳亜が立ち上がり、サンルームの中を歩き回り壁や柱を軽くノックしたり、僕の両腕が回りきらないほどの大型の鉢の中の土に指を差し込んだりし始めた。

「ちょっと芳亜。何してんだよ」

「シュテイン氏は殺されて、家のどこかに隠されているっていう噂なんだ」

「まさか?」思いっきり悪い予感がする。

「俺が謎を暴いてやる!」

 天井に向かって拳を突き上げる芳亜。

 あー、やっぱりそうなるのね。と軽い眩暈がした。幼い頃から、推理小説とヒーロー物が大好きな芳亜は、すっかりその気になっている。

「少し落ち着いてよ。もし何か変だと感じることがあったら、直ぐ君に知らせるから。それより今は、せっかくクリスが用意してくれたんだ、二人でお茶を楽しもうよ。神父様やみんなの話を聞かせて」

 物足りなそうに、部屋の中をぐるりと見渡した芳亜だが、僕のお願いと金色のパウンドケーキが乗った皿の魅力には逆らえなかったらしく、唇を突き出しカウチに腰を下ろした。

「このケーキは『カトルカール』って言う名前なんだ。バターの風味が効いていて、とても美味しいんだよ」

 不服そうに唇を突き出した親友の顔に、幼い頃から全く変わっていない、と微笑む。そしてケーキを一口頬張って、「何だよ、コレ。スッゲー美味いじゃん」と美味しいものを食べて直ぐにご機嫌になるところも、彼の長所の一つだ。

「クリスは良い人だよ」

「人じゃなくて、アンドロイド、だろ」

「でも!」と出掛かった僕の言葉を制するように、芳亜は皿をテーブルに戻して一つ小さくため息を吐いた。

「レイは昔から言い出したら聞かないからな。見た目は大人しそうなのにさ。中身はそこら辺の頑固ジジイみたいだよ」

「そんなに酷くないよー」

「いいや、超頑固。良いか、十分に注意するんだぞ。どんなちっちゃなことでも良いから、怪しいと思ったら、直ぐに俺を呼ぶんだぞ」

「うん。ありがとう。そうする」

 ちょっと斜めの方向に暴走気味ではあるが、この親友が心から僕を心配してくれているのを知っているから、僕は安心していられる。

「気をつけろって言ったら、この間、教会いレイを尋ねて来た奴がいたんだ」

「え?どんな人?何て言ってたの?」

「ゴールド入口の橋の上でお世話になったとかって。痩せぎすのちょっと汚ねえおっさんだった」

 一瞬、あの紳士かと胸が高鳴ったが、芳亜が口にした人相には全く心当たりはなかった。

「お世話ってなんだろ。全く記憶がないな」

「どうせ転んでいる人を助けた、とか。荷物持ってやったとか、そんないつもの感じだろ?レイこそ聖職者に相応しいよな」

「僕は特別な力を持ってないから、無理だよ」

 言ってしまってから、自分の卑屈さが嫌になる。多分僕は、自分が思っているよりもずっと、『特別な力(そのこと)』に囚われているのかもしれない。

 そんな僕の内心を、多分芳亜は知っている。知っていて、何も言わない。それがまた、僕に酷い疎外感を植え付ける。

「その人に何て答えたの?」

「いません、って言ったに決まってるだろ。三年前に飛び出してっから、どこに行ったか知る訳がないって」

 そらっとぼけてる芳亜と神父様の姿が目に浮かぶ。芳亜はもとより、神父様はその気になると、なかなかに食えないタヌキになる。

「でもソイツ、お礼を言いたいから部屋を尋ねたけど、引っ越していたからって、言いやがったんだ」

 ぞっとした。コッチが知らない人間が、僕の住まいを知っている。

 普段、人を助けて請われても、住まいを教えたりはしない。百歩譲って記憶にはない誰かを助けたのだとしても、なぜ僕の部屋まで知っている?

「な、怪しすぎるだろ。もちろん、ここの話はしてねえし、今日ここに来る時も後ろに気をつけた」

 ここにやってくる直接的な原因となった、あの空き巣が何か関係しているのだろうか?

「そう考えると、防犯バッチリな屋敷であのアンドロイドがずっと一緒にいるんなら、そう言う意味じゃあ安心だな」

 頭の中でなぜかヒーロースーツを着たクリスが、群がる悪者をばったばったと薙ぎ倒している姿を想像した。

 もしかしたら、芳亜も同じような想像をしていたのかもしれない。声にも笑いと安堵の色が混じって聞こえた。


 

 たくさんの土産を持たされ、ホクホク顔で帰っていく芳亜を門の外まで見送り、再び屋敷へと戻った。

「幼なじみは帰ったのかい?満足はしたのだろうか。本当にお見送りをしなくて、良かったのかな」

 次々と心配そうに疑問を繰り出すクリスは、庭の中心部にある円形の花壇で、スコップと土に格闘をしていた。

 いつものチャコールグレーの執事服ではなく、僕が勧めた綿のシャツとズボン姿が新鮮だ。初めてクリスに会った時、執事服のまま土を掘り返していて、綺麗な執事服が泥まみれで驚いた。

「大丈夫だよ。またクリスに礼儀正しい執事のお辞儀なんてされたら、芳亜もびっくりしちゃうよ」

 慌てふためき言葉に詰まる芳亜の姿が簡単に想像できて、込み上げる笑いを噛み殺した。

「とても心を許しているんだね」

「うん。芳亜は親友で幼なじみだからね。知っているとは思うけど、僕らは一緒に育ったんだ」

「それは知っているが、それ以上というか」

「それ以上?」

「君たちは、なんの迷いもなく抱擁する仲なんだね」

「抱擁?ああ、ハグのことだね。もしかして、芳亜が来た時、見ていたの?」

 まあ、お茶を淹れるタイミングもあるのだから、来客の瞬間を確認していても不思議ではない。

「以前君と友人の握手をした時、もっと上級編があると言っていた」

「ああ、そんなことを言ったね。もちろん芳亜は上級の上級っていうか、そんなのじゃ測りきれないよ。結構大きくなるまで、同じベッドで寝たりしたしね」

 小さい弟妹がおねしょをしてしまって、ベッドが使えなくなると、仕方なしに僕たち二人は、シングルのベッドにぎゅうぎゅう詰めで眠ることもあった。ちなみにチビたちは三人で寝ていた。

「でもそれだけじゃなくて、芳亜はああやって癒しの力を僕に注いでくれているんだ」

 特別な力は接触によって一番効果が出る。昔の大聖人と言われた人たちは、遠隔で力を送ることもできたようだが、今はそんな凄まじい能力の人はいない。頭を撫でたり手を摩ったり、握手をしたり。触れる面積が最も広いハグは効率が良い、と芳亜は言う。

「そうなのか。それなら抱擁以上に効果がある方法もありそうだね」

 答えに詰まった。

 あることには、ある。

 それは服などに挟まれずに、素肌同士で触れ合うこと。何ならそれ以上のことも。密着度が上がれば上がる程、効果も増す。しかし神父様も芳亜も聖職者である以上、妻帯はしない。多分知識として知っているだけのはず。

「さあ、どうなんだろう。ああ、そうだ。今度クリスも芳亜にハグしてもらいなよ。元気になるよ」

 単純な事実、のはずだけなのに、なぜか恥ずかしくて説明できなかった。

「せっかくの提案だが。多分わたしには効果なないだろう」

 真面目な顔で返答され、また自分がクリスがアンドロイドだと忘れていたと気がつく。

「あ、ごめん」

 けれどもそれに気まずさを感じることはない。あまりにもクリスが淡々としていて、多分僕が何を言っても、目の前の美しい顔が歪むことはないだろう。

「あ、髪に葉っぱが」

 風に踊る木の葉がクリスの髪に止まった。無造作に土で汚れた手を伸ばすのを止め、そっと指先を伸ばす。クリスは自分よりも大分背が低い僕のために、少し屈んで目を閉じた。

 その姿にどきりとした。すっきりと流れるような鼻梁に少し男臭さを感じる顎のライン。錦糸のようなまつ毛は頬に長い影を落とし、美しい翡翠色の瞳は瞼の奥に隠されている。そして驚いたことに、美しい白い貝殻のような耳まで完璧だった。

 毎日顔を合わせ言葉を交わす仲なのに、こんなにも近くで顔を見るのは初めてだった。心臓が跳ねるように大きく一つ鳴った。葉っぱの先の耳へと指が迷うように伸びる。

「取れたかい?」

 静かな声に、僕を取り巻いていた空気が大きく爆ぜ、自分が息を詰めていたことを知る。

「うん。取れたよ」

 さっと摘み取った葉っぱをクリスに見せた。

「ありがとう。では早速、君に手伝ってもらいたいのは…」

 片手に花の苗を持ち花壇を指差すクリスの姿から、何となく気まずくてそっと目を逸らした。その視線の先に。

「あ、あれ」

 大木が大きく伸ばす枝の先に、シルクのハンカチを丸めたような真っ白な花が咲き出していた。

 思わず駆け寄り、空を天に向かって腕を広げる大木を仰ぎ見た。

「ねえ見て。咲き出したよ」

「ああ、そのようだね」

 思わず大きな幹に抱きつくように腕を回した。白く滑らかな幹は少しヒヤリとしていて、耳を寄せると、春の訪れを知らせるこの樹の鼓動が聞こえるんじゃないかと思った。

「君はこの樹が好きなのか?確か初めてこの屋敷に来た日も、この樹を眺めていたよね」

「この樹、ね。子供の時に両親と一緒に住んでいた家の庭にもあったんだ」

 小さな家の小さな庭の大きな樹。春になると空を真っ白に染めるように、枝いっぱいに真っ白な花を咲かせる。

「正直に言うと、初めはこのお屋敷に来るか来ないか迷ったんだ。こんな上手い話はきっと何か裏があるに違いない。だって縁も所縁もないブロンズの住人に家を貸すなんて」

 今ですら目が覚めたら、全ては夢だったんじゃないかって、思う時がある。こんな幸せは文字通りの夢で、現実の僕はオンボロのアパートで目が覚めて、疲れた体を引き摺って仕事に出掛ける。

「でも、レインフォードさんが見せてくれた庭の写真に、この樹が写っていたんだ」

 写真を一目見た瞬間、両親の腕に守られていた遠い昔に一気に引き戻されたような気がした。

「もしかして、泣いているのか?」

 視界がゆっくりと歪み、静かなクリスの声に釣られて頬に手をやると、指先が濡れた。

「あれ?どうしてだろう。何も悲しい事なんてないのに」

 どうして?と聞かれて、声が詰まって答えられない。次々と溢れる涙に蓋をしようとして、拳にした両手の甲を強く目に押し付けた。

「何か不快なことでもあったのか?わたしはアンドロイドなので、人の心を理解しづらい。君に理由を話してもらっても、適切な返事ができるか分からないが、それでも何も分からないと直しようがない」

「そんな。違うよ。クリスのせいなんかじゃない。ただこの樹を見たら昔を思い出して」

 決して自分のことを不幸だと嘆いた訳じゃない。両親を失ってしまっても、運よくホームに引き取られ、親代わりの神父様と芳亜と出会った。幼い弟妹たちの世話も嫌いじゃない。大家族のようで毎日が忙しくて楽しかった。僕は運が良い。本気でそう思っていた。

 それでも心のどこかで、無理をしていたのかもしれない。

「事故の直後、最初は醒めない悪夢の中にいるようで、呆然としていたんだ。少しすると、僕が泣いたら周りが困るって気がついた。泣かないようにしていたら、みんなが偉いねって褒めてくれて。僕はそれが一番良いんだって知っている。それなのに、今更なんで…」

 涙は止まることなく溢れ続け、頬を生ぬるく濡らし続ける。

「可笑しいよね。もう大分昔の話なのにメソメソ泣くなんて」

「時間は関係あるのかな。大切な人を失ったら、悲しいのは当然だ。幼い君は本当によく頑張った。そして今の君も頑張っている」

 よして欲しいのに、抑揚のない分返ってクリスの声が心に沁みた。

「うー」

 喉の奥がひきつれ獣の唸り声みたいな変な音が出たけれど、もうそんなのは気にしてられなかった。

「そんなに力任せに擦ったら、目がどうにかなってしまう」

 目を覆っていた両手を、そっと引き剥がされた。これじゃあ、泣き顔が丸見えだ。

「うわ。見ないでよ。きっと今の僕、酷い顔してるよね」

「今は君とわたしだけだ。そんなことを気にする必要はない。泣きたいだけ泣けば良い。今年のこの花はレイのためのものだ。さあ、これで涙を拭きなさい」

 渡されたハンカチからは、さっぱりとしたグリーンの香りがした。タイムの香りが移ったのかもしれない。

「今までシュタイン邸の一部として、体裁のためにこの庭を整えて来た。『有るもの』を完璧に保つことに価値を見出して来たが、初めて完璧を超える意味を学習した」

「学習って、硬過ぎるよ」

 クリスのこれ以上ない真面目な言いように、思わず拭き出してしまった。

「ああ、だから擦っては駄目だよ」

 クリスは僕からハンカチを取り上げると、そっと目元を拭ってくれた。

「なんか母親みたい。次は鼻をかんで、なんて言い出さないでね」

 次々と押し寄せた涙の波も徐々に収まると、今度は照れくさくて、芳亜みたいに口を尖らせてしまった。

「落ち着いたようで何よりだ」

 そんな僕の様子に、相変わらずクリスは表情も変えることはない。でも、今はそれが有り難かった。同情や哀れみの色が僅かでも見られたら、きっと僕は耐えられない。

 もちろん今まで生きて来て、そういう感情を向けられることもあったけど、たいして親しくもない人なら、別にどうでも良い。ただ僕にとってすでにクリスは近しい存在で、だからこそクリスにだけは、哀れまれたくはなかった。その点、彼は眉一つ顰めることもなかった。

「続きは明日で良い。心が落ち着いたら、いつものサンルームへ。温かいお茶を淹れよう」

 そう言うと、クリスは屋敷へと戻って行った。

 ーシュタイン氏は禁忌を犯した。人の心を持つアンドロイドを…

 芳亜の声がリフレインする。

 もしクリスに心があったのなら、どんな顔で僕を見ていたんだろう。

 風が吹き、雪のような真っ白な花たちが重たげに揺れている。 

 



【続く】

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