第八話 水鏡
広島駅から山陽本線で宮島口。フェリーで十分。瀬戸内海の穏やかな水面を渡ると、厳島が近づいてきた。
海の上に、朱色の大鳥居が立っている。
高さ十六メートル。檜皮葺の屋根。六本の柱が海底の砂に置かれているだけで、自重だけで立っている。地中に杭を打っていない。千四百年の間、台風にも地震にも耐えて——ただ立っている。
「でかい……」早川が呟いた。
直人はフェリーの甲板から大鳥居を見つめた。隣に真琴がいる。スーツではなく、紺のカーディガンにスニーカー。書陵部とは別人のような格好だが、背筋の伸び方と視線の鋭さは変わらない。
「今日の干潮は午後二時十二分」真琴がスマートフォンの潮汐表を確認した。「干潮時には大鳥居まで歩いて行けます。満潮は午後八時四十分。干潮から満潮までの間に水位が約三メートル上がります」
「作業時間は干潮前後の——」
「二時間程度です。午後一時から三時の間が安全圏。三時を過ぎると水位が上がり始めます」
フェリーが宮島桟橋に着いた。三人は厳島神社に向かって歩いた。参道には鹿がいる。観光客に混じって、紅葉谷の方からのんびりと歩いてくる鹿を、早川が珍しそうに眺めた。
「鹿って人懐こいんすね——あ、カバン齧られ——」
「食べ物を見せるからだ。カバンを閉めろ」
厳島神社の社殿に入った。海の上に立つ回廊。朱塗りの柱と、潮が引いた海底の砂。今は干潮に向かう途中で、水位は膝丈ほど。回廊の下に海水がゆるやかに揺れている。
直人は回廊から大鳥居を見た。正面。干潮まであと一時間半。水位がさらに下がれば、鳥居まで歩いて行ける。
「まず巻物を読む。干潮を待って大鳥居に近づくのは、その後だ」
三人は神社の外に出て、砂浜に下りた。干潮が近づくにつれ、海水が引いていく。社殿の前の砂浜に、浅い潮だまりがいくつもできていた。
直人は風の当たらない場所を探した。社殿の裏手、石灯籠の影になっている小さな潮だまり。水面が鏡のように平らだ。
「ここで試す」
直人はウエストポーチから巻物の断片を取り出した。白手袋を嵌める。真琴も手袋を嵌めた。二人の動作が同じだった。文化財を扱う人間の反射。
巻物を広げ、文字の面を下にして——水面の上にかざした。
水面に、巻物の裏面が映る。だが水面の揺れと反射で、文字はぼやけて読めない。
「レンズを」
直人は凸レンズを取り出した。真鍮の縁。明治の職人が作った小さなレンズ。
レンズを目に当て、水面の反射像を覗いた。
凸レンズの効果で、水面に映った文字が拡大される。同時に——ぼやけが減った。レンズの焦点距離が、水面の反射像を見るのにちょうどいい距離に設定されていた。偶然ではない。このレンズは、最初からこの使い方のために作られている。
文字が見えた。
裏面の墨書き。表の文字を避けるように、隙間に書かれた別の文章。鏡文字——水面に映すことで正位置になる。
「読める——」直人の声が震えた。
「何と書いてあります」真琴が隣で身を乗り出した。
直人はレンズ越しに、一字一字読み上げた。
「『大鳥居ノ西ノ柱、満潮線ノ三尺下、紋ヲ探セ。紋ハ道ヲ示ス。——鏡ヲ持ツ者ヨ、汝ハ正シキ者ナリ』」
大鳥居の西の柱。満潮線の三尺下。紋を探せ。
「満潮線の三尺下……」真琴が計算した。「一尺は約三十センチ。三尺は約九十センチ。満潮時の水面から九十センチ下——つまり通常は海水に浸かっている位置です。干潮時にだけ露出する」
「だから干潮を待つ必要があるんだ」
「今日の干潮で、その位置は露出しますか」早川が潮汐表を覗いた。「今日の干潮は潮位三十二センチ。大潮じゃないから、かなり低い位置まではいかない。——ギリギリかも」
「行ってみるしかない。干潮まであと四十分」
午後一時五十分。水位がかなり下がった。大鳥居の周囲に砂浜が広がり、観光客が鳥居の近くまで歩いている。
三人は鳥居に向かった。直人の靴が湿った砂を踏む。海藻の匂い。潮だまりに小さな蟹がいる。
大鳥居の前に立った。見上げると、巨大な柱が空を支えている。根元は太い。大人四人が手を繋いでようやく一周できるほどの太さ。
「西の柱はこっちだ」
直人は西側の柱に近づいた。柱の根元。海水に常時浸かっている部分は、貝殻と海藻がびっしりと付着している。満潮線の上は比較的きれいだが、下は——海の生き物たちの領域だ。
「満潮線の三尺下。——この辺りだ」
直人は柱の根元にしゃがんだ。水位はまだ足首ほどあるが、目的の位置は露出している。貝殻と海藻を、指で慎重に除けた。
柱の木肌が現れた。檜。海水に浸かり続けた木は、色が黒ずんでいる。表面はざらざらしている。
直人の指が、木肌の上を滑った。ざらつきの中に——均一ではない部分がある。周囲より少しだけ浅い溝。人為的な溝。
「何かある——」
直人は海藻をさらに除けた。指先で溝の形を辿る。円形。直径十センチほど。円の中に——花弁。
「菊紋だ」
真琴が隣でしゃがんだ。スニーカーが海水に浸かるのも構わず、柱に顔を近づけた。
「花弁を数えます——一、二、三……十六。十六枚。正式な菊の御紋です。——でも」
「二枚だけ深く彫られている」
直人の指が確認していた。十六枚の花弁のうち、二枚だけ——溝が深い。他の花弁の倍ほど深く刻まれている。
「鎌倉大仏は十四枚だった。二枚欠けていた。ここは十六枚あるが、二枚だけ深い。——対応している」
「欠けた二枚と、深い二枚が同じ位置ですか」
直人は頭の中で鎌倉の菊紋と、目の前の菊紋を重ねた。花弁の位置。鎌倉で欠けていたのは二時と八時の方向。この鳥居の菊紋で深い二枚は——
「同じだ。二時と八時の方向。北北東と南南西」
「方角を読んでいるんですね。この鳥居を中心に、北北東と南南西に——」
「線を引く。その線が次の場所を指す」
早川がスマートフォンの地図を開いた。厳島神社の大鳥居を中心に、北北東と南南西に線を引く。
「北北東は——本州側を通って、中国山地を横切って……ずっと延ばすと——京都方面」
「京都」直人が言った。「五カ所のうちの四番目」
「南南西は——海を越えて九州、鹿児島方面。——いや、途中に何かある?」
「方角だけでは場所を特定できない。もう一つの手がかりが必要だ。——だが京都という方向は合っている」
直人は菊紋の写真を撮ろうとした。だがその瞬間——足元の水位が変わったことに気づいた。
さっきまで足首だった水が、ふくらはぎに達している。
「潮が——」
「満ちてきてる!」早川が叫んだ。「干潮は二時十二分だったのに——もう二時半——」
「干潮を過ぎた。水位が上がり始めている」
瀬戸内海の潮の満ち引きは速い。干潮から満潮に転じると、水位は一時間に数十センチのペースで上昇する。今はまだ緩やかだが、これから加速する。
「写真を撮る。——真琴さん、菊紋の拓本は取れるか」
「この状況では——水が」
水位がさらに上がった。膝に達した。柱の根元の菊紋が、水面下に沈み始めている。
「急いでくれ」
真琴がカバンから和紙とクレヨンを取り出した。学芸員は拓本の道具を常備している。水に浸かりながら、菊紋の上に和紙を当て、クレヨンでこすった。簡易拓本。精度は落ちるが、花弁の配置は記録できる。
「取れました——」
水が腰に達した。
「戻るぞ!」
三人は鳥居から砂浜に向かって歩き始めた。だが水位の上昇が思ったより速い。さっきまで砂浜だった場所が、すでに浅い海になっている。
足元が不安定だ。砂に足を取られる。海水が服を重くする。
「鷺宮さん、こっちの方が浅い——」早川が先行した。
直人は真琴の後ろを歩いていた。真琴の足取りが不安定だ。スニーカーが砂にめり込み、一歩ごとに体が揺れる。
波が来た。小さな波。だが膝まで水に浸かった状態では、小さな波でもバランスを崩すのに十分だった。
真琴の足が滑った。
体が傾き——水面に向かって倒れかけた。
直人の手が、真琴の腕を掴んだ。
引き寄せた。真琴の体が直人の胸にぶつかった。海水に濡れた服越しに、真琴の体温が伝わった。心臓が——真琴のものか、直人のものか分からない——激しく鳴っていた。
「大丈夫か」
「——はい。すみません」
真琴の顔が近かった。海水で髪が額に貼り付いている。眼鏡に水滴がついている。いつもの硬い表情が崩れて——怯えと、別の何かが混ざった顔をしていた。
「手を離さないでくれ」直人が言った。「岸まで一緒に行く」
真琴が頷いた。直人は真琴の手を握ったまま、水の中を歩いた。早川が前方で「こっちっす!」と手を振っている。
岸に上がった時、三人とも腰から下がびしょ濡れだった。
真琴が石灯籠の台座に座り込んだ。膝を抱えて、荒い息をしている。
「——怖かった」
「すまない。時間の見積もりが甘かった」
「いえ。私が来ると言ったのです。覚悟はしていたつもりでしたが——体が追いつかなかった」
真琴がポケットから、ビニール袋に入った拓本を取り出した。海水に濡れているが、和紙に記録された菊紋の模様は残っている。
「これ——ちゃんと取れてます」
直人は拓本を受け取った。真琴の指に、直人の指が触れた。冷たい。海水で冷えている。
直人はジャケットを脱いで真琴に渡した。
「着てくれ。体を冷やすな」
「でも鷺宮さんが——」
「俺は平気だ」
嘘だった。直人も寒い。九月の瀬戸内海は温暖だが、濡れた服で風に当たれば体温は急速に下がる。
真琴がジャケットを受け取った。袖に腕を通す時、ジャケットの裏地が直人の体温で温かいことに気づいたのか——一瞬だけ、真琴の表情が緩んだ。
早川が自販機で温かいお茶を三本買ってきた。
「はい、どうぞ。——で、成果は?」
「菊紋の拓本は取れた。方角のデータも記録した。そして——」直人は巻物の解読結果を思い出した。「巻物の裏面の全文。『大鳥居の西の柱、満潮線の三尺下、紋を探せ。紋は道を示す。鏡を持つ者よ、汝は正しき者なり』」
「正しき者。——鏡を持つ者が正しい、って何の話すか」
「分からない。だが——『鏡を持つ者のみ此処に至れ』と同じ文脈だ。鏡=レンズを持っている者は、正しい手順を踏んできた者。暗号の仕掛け人が認めた者」
真琴がお茶を飲みながら言った。
「試験のようなものかもしれません。旧一円札を見つけ、御料車のギミックを解き、石垣の仕掛けを開け、水鏡の文字を読んだ。——各段階をクリアした者だけが、次に進める」
「段階的な選別。——暗号を仕掛けた人間は、宝を見つける者の資質を試していたのか」
「資質というか——信頼性でしょう。宝を見つけた者が、それを正しく扱えるかどうか。金目当ての人間は、途中で諦める。歴史を愛し、宝を守る意志がある人間だけが、最後まで辿り着ける。——そう設計されているのだと思います」
真琴の言葉に、直人は祖父を重ねた。三十年間諦めなかった人。金ではなく、歴史の真実を追い続けた人。
だが祖父は最後まで辿り着けなかった。体力が先に尽きた。
直人は拳を握った。祖父の代わりに——最後まで行く。
宮島の旅館に一泊した。三人は別々の部屋を取った。
夕食後、直人は旅館のロビーで金属板の地図を広げていた。厳島の×印。大鳥居の菊紋が示す方角——北北東、京都方面。
真琴がロビーに下りてきた。直人のジャケットを手に持っている。乾かしたのだろう。
「ありがとうございました。——お返しします」
「いや、明日の朝でよかったのに」
「乾いたので」
真琴が向かいの椅子に座った。金属板を覗き込む。
「京都——御所ですね。五カ所のうち四番目」
「ああ。日光、鎌倉、姫路、厳島ときて、京都。——残りは日光だけだ」
「でも京都と日光は、まだ手がかりが具体的ではありません。菊紋の方角だけでは、京都のどこか、日光のどこかが分からない」
「それを解くのが——巻物の裏面か、金属板の未読部分か。あるいは、まだ見つけていない別の手がかり」
真琴が考え込んだ。ロビーの時計が十時を打った。
「鷺宮さん」
「何だ」
「お祖父様のノートに——まだ読んでいない部分はありますか」
「二冊とも通読した。だが——ノート自体が不完全だ。三十年の研究に対して、分量が少なすぎる。記録の一部が——おそらく黒田の手元にある」
「黒田総一郎。——あの方の資料を、もう一度見る必要があるかもしれません」
「黒田は協力を持ちかけてきた。だが信用できない。姫路で追ってきたのは黒田の手の者だ」
「確証は?」
「ない。だが——偶然が多すぎる」
真琴は黙った。しばらくして、静かに言った。
「鷺宮さん。私は書陵部の人間です。黒田総一郎さんが書陵部に閲覧申請を出したことは、業務上知っています。——そして黒田さんが、過去に書陵部の文書を大量に閲覧していたことも」
「大量に?」
「お祖父様が退職された後、黒田さんは何度も書陵部を訪れています。閲覧記録が残っています。幕末期の宮内省記録を中心に、数十点の文書を閲覧している。——そのうちいくつかは、お祖父様と同じ文書です」
「じいちゃんと同じ文書を——」
「はい。黒田さんは、お祖父様と同じ出発点から、同じ道を辿っています。ただし——方法が違います。お祖父様は文書から現場に行った。黒田さんは文書から文書に行った。現場よりも、文献を優先する研究者です」
文献優先。つまり黒田は、フィールドワークよりもデスクワークの人間だ。御料車のギミックも、姫路城の石垣のスライド機構も、黒田は自分では見つけられなかったかもしれない。だから直人を追跡している。直人の行動を監視し、直人が見つけたものを横取りしようとしている。
「ありがとう、真琴さん。——もう遅い。休んでくれ」
「はい。——おやすみなさい」
真琴が立ち上がった。階段に向かう途中で、一度だけ振り返った。何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに二階に上がっていった。
直人は一人でロビーに残り、金属板を見つめた。
五カ所。日光、鎌倉、姫路、厳島、京都。そのうち三カ所——鎌倉、姫路、厳島——で手がかりを得た。残りは京都と日光。
京都御所。日光東照宮。どちらも、入るだけなら一般公開されている。だが暗号の手がかりは、一般公開エリアの中にあるのか、それとも非公開の奥にあるのか。
もし非公開エリアにあるなら——潜入が必要になる。
直人は頭を振った。まだそこまで考える段階ではない。まず、手持ちの情報を整理して、次の一手を確定する。
旅館の窓の外に、瀬戸内海の夜の海が広がっていた。月明かりが水面に帯を引いている。大鳥居のシルエットが、闇の中に浮かんでいる。
あの鳥居の柱に、四百年以上前に菊紋が彫られた。満潮時には海水に沈み、干潮時にだけ顔を出す。年に何度、その紋章が人の目に触れただろう。そしてその紋章の意味に気づいた人間は——直人たちが初めてかもしれない。
世界は秘密で満ちている。見ているのに、見えていない。触れているのに、気づかない。
修復士の仕事は、見えないものを見えるようにすることだ。
直人は金属板を布に包み、ロビーの明かりを消した。




