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星霜の蔵  作者: nose360
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第七話 鏡を持つ者  

厳島に行く前に、一つ確認すべきことがあった。

 金属板の裏面に刻まれた「汝、鏡を持つ者のみ此処に至れ」。鏡を持つ者。直人はこの言葉が、単に凸レンズのことだけを指しているとは思えなかった。暗号を仕込んだ人間は、一つの手がかりに複数の意味を持たせる。修復士が和紙の表と裏を使い分けるように。

 直人は自宅のアパートで、金属板を改めて観察した。

 地図の線刻。海岸線と島の配置は瀬戸内海で間違いない。だが×印の周辺に、もう一つ気になる印がある。×印の横に、小さな矢印。矢印は——北西を指している。

 厳島神社から北西。海を渡った先にあるのは——本州側の宮島口、そしてその先に広島市街。

 矢印が何を意味するのかは分からない。だが「×印に行け」だけでなく、「そこから北西に何かがある」という示唆かもしれない。

 直人は金属板を布に包み直した。

 翌朝、シェアオフィスに出ると、早川がモニターの前で興奮した顔をしていた。

「鷺宮さん! 昨日の夜、ずっと調べてたんすけど——すごいこと見つけたっす」

「何だ」

「パスポート」

「パスポート?」

「日本のパスポートって、ブラックライト当てると隠し絵柄が浮かび上がるの知ってます?」

 直人は知らなかった。

「各ページに、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が一枚ずつ隠されてるんすよ。紫外線で光るインクで印刷されてて、普通の光じゃ見えない。偽造防止のセキュリティ機能なんすけど——」

 早川がスマートフォンの画面を見せた。パスポートにUVライトを当てた写真。ページいっぱいに、北斎の浮世絵が青白く浮かび上がっている。

「これ、ほとんどの人が知らないんすよ。自分のパスポートにこんなのが隠れてるなんて。——で、思ったんすけど」

「何を」

「厳島っすよ。富嶽三十六景の中に、厳島を描いた作品がある。『安芸の宮島』。——パスポートの何ページ目にこの絵が入ってるか調べたんすけど、ちょっと面白いことが分かって」

 早川がメモを見せた。パスポートのページ番号と、対応する浮世絵の一覧。

「富嶽三十六景は全四十六図(表三十六図+裏十図)。パスポートの査証ページに順番に配置されてる。で、『安芸の宮島』は——十五ページ目」

「十五ページ。それで?」

「金属板の地図を見てください。×印の横にある矢印。あの矢印の角度を計測したんすけど——北西に約十五度」

 十五。ページ番号と角度が一致。

「偶然かもしれない」直人は言った。

「かもしれないっす。でも——もう一個あるんすよ。パスポートの十五ページの浮世絵、厳島神社の大鳥居が描かれてる。そして鳥居の位置が、ページの中で——ちょうど×印と同じ位置にある。左下」

 直人は黙った。偶然が二つ重なると、偶然ではなくなる。三つ重なれば——意図だ。

「パスポートのセキュリティ印刷は現代のものだ。幕末の暗号とは時代が合わない」

「そうなんすよ。だから直接の関係はない。でも——暗号を仕込んだ人間が、富嶽三十六景を参照していた可能性はある。北斎の時代は江戸末期。暗号が仕込まれた幕末とほぼ同時代っす」

「つまり、暗号の体系が北斎の画集と同じ構造で作られている——」

「かもしれない。各手がかりが、富嶽三十六景の各図に対応している。鎌倉大仏は——『相州江の嶋』か『東海道江尻田子ノ浦略図』。姫路は——直接の作品はないけど、播磨は『東海道品川御殿山ノ不二』の方角にある。そして厳島は『安芸の宮島』」

「検証が必要だ。だが——手がかりにはなる。厳島での調査に、UVライトを持っていこう」

 早川が嬉しそうに頷いた。


 厳島行きの準備をしている最中に、九条真琴から連絡が来た。

「鷺宮さん。書陵部での閲覧日程が確定しました。来週の月曜日、午前十時。——お待ちしています」

「ありがとうございます。——あの、九条さん。一つ質問があります」

「何でしょう」

「厳島神社について、書陵部に関連資料はありますか。幕末期の——明治維新前後の、厳島に関する記録」

 少しの沈黙。

「……あります。厳島神社は古来、皇室と縁が深い神社です。幕末期の宮内省記録にも、厳島に関する文書がいくつか。——鷺宮さん、厳島に行かれるのですか」

「行くつもりです」

「いつ」

「できれば来週中に」

 また沈黙。そして真琴は、直人が予想しなかったことを言った。

「私も行きます」

「え——」

「書陵部の学芸員として、ではありません。個人としてです。——鷺宮さんの調査を、見させてください」

「なぜ」

「鷺宮清一郎さんの研究に興味があります。書陵部にいた頃の先輩方から、鷺宮さんのお祖父様がどれほど優秀な修復士だったか聞いています。そしてお祖父様が何を追っていたのか——ずっと気になっていました」

 直人は受話器を握ったまま考えた。九条真琴。書陵部の学芸員。古文書の専門家。もし彼女が同行するなら、巻物の断片の解読に力を貸してもらえるかもしれない。

 だがリスクもある。彼女が宮内庁の人間であること。調査の内容が宮内庁に伝わる可能性。

「九条さん。この調査は公式のものではありません。宮内庁に報告されるようなことは——」

「しません。これは私個人の——好奇心です」

 好奇心。その言葉に、直人は祖父を重ねた。祖父もまた、好奇心で人生を賭けた人間だった。

「——分かりました。来週、厳島に行きます。同行してくれるなら、助かります。古文書の読解で力を貸してください」

「はい。——では、書陵部の閲覧を先に済ませましょう。月曜にお会いしましょう」


 月曜日。書陵部。

 直人は申請していた慶応四年の文書を閲覧した。九条真琴が立ち会い、取り扱い方を指示した。

 文書は和紙に墨書き。薄い料紙に、流麗だが急いだ筆跡。差出人の署名はない。だが文中に「御宝物」「五ヶ所」「分散」の文字がある。祖父のノートに引用されていた文書と、一致する。

「『御宝物ノ件、五ヶ所ニ分散完了。地図ハ分断シ、日常ノ中ニ溶ケ込マセタリ。百年経テモ千年経テモ、壊サレヌモノノ中ニ。鍵ハ旧札ニアリ』」

 直人はルーペで文書を観察した。修復士の目で。紙の繊維。墨の濃淡。筆圧の変化。

「この文書を書いた人間は、急いでいた」直人が言った。「筆圧が不安定で、一部の文字が潰れている。平時の書簡ではない。切迫した状況で書かれている」

「慶応四年三月。江戸城が新政府軍に引き渡される直前ですね」真琴が言った。「城内は混乱していたはずです。宝物の搬出も、時間との戦いだった」

「五ヶ所に分散。日光、鎌倉、姫路、京都、厳島。——この五ヶ所は、どう選ばれたのか」

「いずれも、政権が変わっても破壊されない場所です」真琴の声に、学芸員としての確信があった。「日光東照宮は徳川家の聖地ですが、明治政府にとっても壊せない文化財。鎌倉大仏、姫路城、京都御所、厳島神社——すべて日本の聖域。新政府が接収しても、建造物自体を壊す理由がない」

「百年経ても千年経ても壊されないもの。——石垣、仏像、紙幣。物理的に頑丈で、文化的に保護されるものの中に隠した」

 直人は文書を撮影した。真琴が許可した範囲で。

「九条さん。この文書の前後に、関連する文書はありますか。同じ差出人、同じ時期の——」

「調べます。——少し時間をください」

 真琴は書庫の奥に消えた。十五分ほどして戻ってきた時、手に別の文書を持っていた。

「ありました。同じ料紙、同じ筆跡。日付は数日後。慶応四年三月の末。——内容は」

 真琴が文書を読み上げた。

「『搬出ハ完了セリ。然レドモ、蔵ノ全容ヲ知ル者ハ余一人ナリ。余ノ死後、此ノ知識ハ失ワレン。依ッテ、地図ヲ五ツニ分カチ、各地ニ封ジタリ。五ツ揃エザレバ全容ハ見エズ。——後世ノ者ヨ、此ノ国ノ宝ヲ守レ』」

 後世の者よ、この国の宝を守れ。

 百五十年以上前の、名もない人間の遺言。

 直人の胸に、熱いものが込み上げた。この人物は——最後の将軍に仕え、主君の宝を守るために命を懸けた。宝の場所を一人で背負い、自分が死んだ後も宝が見つけられるよう、暗号を仕込んだ。

 そして百五十年後。祖父がその暗号を見つけ、直人が引き継いだ。

「鷺宮さん」真琴の声が、いつもより柔らかかった。「お祖父様は——この文書をここで読んだんですね。何十年も前に」

「ああ。この文書が、すべての始まりだった」

「お祖父様は正しかった。この文書は本物です。料紙、墨、筆跡——すべて幕末期と整合しています。偽造ではありません」

 真琴が断定した。学芸員としての専門的な判断。

「九条さん——」

「真琴、で結構です。現場では肩書きは邪魔です」

 直人は少し驚いた。書陵部で「門前払い」をした時の硬い女性とは、別人のような口調だった。

「……真琴さん。厳島の件、よろしくお願いします」

「こちらこそ。——巻物の断片、見せていただけますか。古文書の専門家として、紙質と墨の年代を鑑定したいので」

 直人はカバンから巻物の断片を取り出した。真琴が白手袋を嵌め、断片を受け取った。修復士と同じ——文化財を扱う人間の手つき。

 真琴がルーペで断片を観察した。

「和紙は——楮。繊維が長い。手漉き。紙の厚みから推定すると、江戸後期から幕末の紙。墨は松煙墨。良質。筆は細筆。書き手は教養のある人物」

「裏面に何かある。光に透かすと、もう一層の文字が見える」

 真琴が断片を光に透かした。目を細める。

「確かに——裏面にも書かれている。表の墨が邪魔をして判読できませんが——部分的に見える文字があります」

「何と書いてある」

「『大鳥居ノ西ノ柱——』ここまでは読める。その後は墨が重なって見えません。——水面に映せば、表裏が反転して裏面が読めるかもしれません」

「それが『水鏡に映せ』の意味だ」

「凸レンズで拡大して——。なるほど。よく考えられた仕掛けですね」

 真琴の目が輝いていた。門前払いの時の硬い表情は完全に消えて、純粋な知的興奮に満ちた顔になっている。直人はその変化に気づいたが、口には出さなかった。


 厳島行きは、翌週の水曜に決まった。

 メンバーは直人、早川、真琴の三人。直人が現場調査と物理ギミックの操作、早川がテクノロジーと記録、真琴が古文書解読と歴史的知識を担当する。

 出発前夜、直人は自宅で持ち物を確認した。

 旧一円札。御料車から出た凸レンズ。巻物の断片。姫路城の真鍮の筒から出た金属板。

 すべてをウエストポーチに入れ、肌身離さず持つ。

 早川に連絡した。

「明日の集合は東京駅七時。のぞみで広島。宮島口からフェリーで宮島。——早川、一つ頼みがある」

「何すか」

「今日撮った写真と、座標データと、大仏の赤外線画像。全部バックアップを取っておいてくれ。外付けHDDに。俺のカバンが奪われても、データが残るように」

「バックアップっすね。了解。——ていうか、カバンが奪われる前提なんすか」

「最悪の場合の想定だ」

「鷺宮さん。正直に聞いていいすか」

「何だ」

「怖くないんすか」

 直人は少し考えた。

「怖い。——だが祖父は、三十年間一人でやっていた。俺には仲間がいる。その分、ましだ」

 電話の向こうで、早川が息を呑むのが聞こえた。

「——了解っす。バックアップ、完璧にやっときます。基本っすから」

 電話を切った。

 直人は窓の外を見た。東京の夜空。星は見えない。だが明日は瀬戸内海の上にいる。厳島の海の上に。

 鏡を持つ者のみ此処に至れ。

 直人はポケットの中の凸レンズに触れた。明治の職人が作った、小さな真鍮のレンズ。何に使うのかも分からず、御料車の中で百四十八年間眠っていた。

 その眠りを覚ましたのは直人だ。そして明日、このレンズは——本来の役割を果たす。

 水面に映した巻物の文字を、このレンズ越しに読む。四百年前の暗号の次の断片が、そこに書かれている。

 直人は明かりを消して布団に入った。目を閉じると、鎌倉大仏の胎内で見た十四枚の菊紋が浮かんだ。姫路城の石垣のスライドギミック。御料車の隠し引き出し。

 手がかりは断片だ。だが断片が集まりつつある。もう少しで——全体像が見える。

 眠りに落ちる直前、祖父の声が聞こえた気がした。

 よくやっている。

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