第六話 白鷺の石垣
御料車の隠し引き出しから出てきた三つの遺物。真鍮の凸レンズ、巻物の断片、石の欠片。
直人はシェアオフィスの修復台の上に三つを並べ、それぞれを観察した。
凸レンズは精巧な作りだった。真鍮の縁に、微細な唐草模様が彫られている。明治期の工芸品。レンズの曲率は——直人が指先で表面をなぞると、かなり強い凸面。倍率は高くないが、光を集める力がある。虫眼鏡として使うには小さすぎる。何か別の用途だ。
巻物の断片。和紙に墨書き。崩し字で「続きは水鏡に映せ」。それだけだ。水鏡——水面に映すという意味か。だが何のために。
そして石の欠片。これが最も具体的な手がかりだった。
表面の刻印。丸の中に横線一本。裏面に「三ノ丸 巽 七」。
「三ノ丸は城の外郭。巽は南東。七は石垣の段数だろう。どこかの城の、三ノ丸の南東側、石垣の七段目に——この刻印と同じ石がある」
早川が身を乗り出した。
「どこの城っすか」
「それが分からない。日本には城跡が三万以上ある。石垣のある城に限っても数百。この刻印だけでは——」
「画像検索っすよ」
早川がスマートフォンを取り出し、石の欠片の刻印を撮影した。Googleレンズで画像検索。
結果が表示された。石垣の写真がずらりと並ぶ。大阪城、名古屋城、熊本城——。だが同じ刻印は見つからない。丸に十字、丸に三角、家紋に似た記号。いくつも出てくるが、「丸に横線一本」は一致しない。
「ダメっすね。一般的すぎて絞れない。石垣の刻印って何千種類もあるんすよね」
「ああ。各藩の石工がそれぞれ独自の記号を使った。管理番号のようなものだ。同じ記号が複数の城で使われている場合もある」
「じゃあ特定不可能——」
「いや。方法がある」
直人は祖父のノートではなく、自分の記憶を探った。修復士としての知識。文化財のデータベース。
「大阪城天守閣に、全国の石垣刻印を集めたデータベースがある。約二万点。学術目的なら閲覧申請できる。——ただし現地でしか使えない」
「大阪?」
「新幹線で二時間半だ」
「交通費が——」
「俺が出す」
直人は立ち上がった。だがそこで、一つの問題に気づいた。
黒田が直人の動きを監視している可能性。書陵部の閲覧申請が翌日に追いかけてきたことを考えると、直人が大阪に行けば黒田も動くかもしれない。
「早川。明日の朝一の新幹線で行く。誰にも言うな」
「了解っす」
翌朝、東京駅から新幹線のぞみで新大阪へ。そこから大阪環状線で大阪城公園駅。
大阪城天守閣は、朝の陽光の中に白く輝いていた。コンクリート造の復元天守だが、その足元の石垣は本物だ。豊臣期と徳川期の石垣が重なり、四百年以上の歴史を刻んでいる。
天守閣の学芸資料室に入るには、事前に連絡を入れてある。文化財修復士の肩書きと、「石垣の刻印技法に関する調査」という名目。
学芸員に案内された資料室は、天守閣の上層階にある小さな部屋だった。PCが一台。データベースのインターフェースが表示されている。
「こちらのデータベースで刻印の検索ができます。形状、城名、年代、地区で絞り込みが可能です。何かご不明な点があればお声がけください」
学芸員が去った後、直人はPCの前に座った。早川が隣に立つ。
石の欠片の写真をスマートフォンに表示し、データベースの検索画面と見比べた。
検索条件:形状=円形、内部記号=直線(横)。
結果が表示された。約四十件。全国の城から報告された、丸の中に横線を含む刻印。大阪城、名古屋城、姫路城、熊本城、広島城——。
直人は一件ずつ確認していった。多くは丸に横線だけでなく、他の記号が組み合わさっている。丸に横線と縦線(十字に近い)、丸に横線と点、丸に二本の横線。完全に「丸に横線一本のみ」の刻印は——
三件だった。
一件目。大阪城。三ノ丸南面。一六二〇年代。加藤家の石工。
二件目。姫路城。三ノ丸巽方面。一六〇一年〜一六〇九年。池田輝政の築城期。
三件目。名古屋城。二ノ丸東面。一六一〇年代。福島正則の石工。
「三件っすね。——裏面の文字は『三ノ丸、巽、七』だから、三ノ丸で巽の方角にあるのは——」
「姫路城だけだ」
二件目。姫路城。三ノ丸巽(南東)方面。
だが直人の目は、データベースの備考欄に釘付けになっていた。
「本刻印は姫路城の刻印台帳に記録なし。正規の石工刻印ではない可能性あり。報告者注記:周辺の石と石質が異なる(花崗岩ではなく安山岩)。後世の差し替えの可能性を排除できない」
「記録にない刻印——。正規の石工じゃない誰かが、石を差し替えた?」
「あるいは、最初から紛れ込ませた。四百年前に。——正規の築城工事に紛れて、一つだけ別の石を混入させた。刻印台帳に載っていないのは、正規の工程の外で行われたからだ」
「それ、バレないもんすか」
「三ノ丸の石垣には数千の石がある。一つだけ石質が違っていても、積み上がってしまえば誰も気にしない。四百年間気づかれなかった」
直人は画面を写真に撮った。所在地の詳細。三ノ丸南東面、巽櫓寄り。
「姫路に行くぞ」
新大阪から山陽新幹線で姫路まで三十分。姫路駅を出ると、大手前通りの正面に姫路城の天守が見えた。白漆喰の城壁が午後の陽光に輝いている。白鷺城の異名そのままに、空に浮かぶ白い鳥のようだ。
直人は早川と共に三ノ丸広場に入った。ここは無料で入れる。石垣は間近で見られる。
南東方向——巽の方角。巽櫓に近い石垣を目指して歩く。観光客がまばらにいるが、石垣に注目している人間はいない。
「三ノ丸、巽、七段目。——下から数えて七段目の石だ」
直人は石垣の前にしゃがみ込んだ。石の表面を一つずつ確認していく。多くの石には刻印がある。丸に十字、三角、扇形。池田家の石工たちが残した管理記号。
四百年前の職人の手仕事が、石の表面に残っている。風雨にさらされて薄くなっているものもあるが、刻印は消えていない。石は紙よりもずっと長持ちする。
「鷺宮さん——これっす」
早川が指差した先、七段目の石の一つに——丸の中に横線一本。
御料車の隠し引き出しから出てきた石の欠片と、同じ刻印。
直人は石に手を触れた。周囲の石は花崗岩。だがこの石だけ——手触りが違う。安山岩。データベースの記述通り、石質が違う。
「確かにこの石だけ違う。色も微妙に暗い。——だが石は巨大だ。動かすことはできない」
「じゃあどうする——」
「石そのものじゃない。刻印だ」
直人は刻印に指を近づけた。丸の中の横線。線に指の腹を当てる。
溝がある。横線は単なる彫りではなく、わずかな深さがある溝だ。そして——溝の幅が均一ではない。一方の端がほんの少し広い。
直人は横線の広い端に指を当て、狭い端に向かって——横にスライドさせた。
抵抗がある。石と石の摩擦。だが——動く。横線の部分が、石の表面に沿って横に滑る。一センチ、二センチ——
カチッ。
小さな音。石の表面の一部が——奥に沈んだ。一センチほど。そこに隙間が生まれた。
「動いた——」早川が声を押し殺した。「マジかよ——」
直人の手が震えていた。修復士としての冷静さを保とうとしたが、無理だった。四百年前に仕込まれたギミックが、今、目の前で動いている。
隙間に指を入れた。石の内部に空洞がある。拳が入るほどの大きさ。そして空洞の中に——
指先が、金属に触れた。
慎重に引き出す。小さな真鍮の筒。長さ十センチ。両端が蝋で密封されている。
直人は筒を手に取った。ずしりとした重さ。密封された中に、何かが入っている。
「鷺宮さん……これ、四百年ここにあったんすか」
「石垣が築かれたのが一六〇一年なら——四百二十三年」
「四百二十三年間、何百万人が——」
「見ていた。だが誰も気づかなかった。この刻印のスライド機構を知らなければ、ただの石だ」
直人は筒を懐に入れた。スライド機構を元に戻す。表面の石が元の位置に戻り、隙間が閉じた。何事もなかったかのように。
立ち上がった瞬間——視界の端に、人影が動いた。
三ノ丸広場の向こう側。塀の陰。グレーのジャケット。
鎌倉で見た男と同じ——いや、同じかどうかは距離があって確認できない。だがグレーのジャケット。そしてカメラを手にしているが、撮影していない。
「早川。走れ」
「え——」
「走れ!」
直人は早川の腕を掴み、石垣沿いに駆け出した。三ノ丸広場から西の出口へ。観光客の間を縫って走る。
背後で足音が聞こえた。一人ではない。二人以上。
「鷺宮さん、何——」
「見られた。石のギミックを開けるところを」
大手門の方向へ走る。だが大手門は人が多い。人混みに紛れられるかもしれないが、逆に追い詰められるかもしれない。
直人は咄嗟に方向を変えた。城の北側、内堀沿いの小道へ。観光ルートから外れた、人気のない道。
足音が近づいてくる。
「鷺宮さん!」
角を曲がった瞬間、直人は早川を茂みの影に押し込み、自分もしゃがんだ。
足音が通り過ぎていく。二人分。走る足音が角を曲がり——直人たちの隠れている茂みの前を通過した。
五秒。十秒。足音が遠ざかる。
直人は息を殺したまま、早川の肩を押さえていた。早川の心臓が、背中越しに感じられるほど激しく打っている。
一分後。足音は完全に消えた。
直人は立ち上がり、周囲を確認した。誰もいない。
「行くぞ。姫路駅まで裏道で——」
「鷺宮さん。俺、ちょっと待って——心臓が——」
「走れないなら歩け。だが止まるな」
二人は内堀沿いの道を早足で姫路駅方向に向かった。途中で何度も振り返ったが、追手の姿はなかった。
姫路駅の改札を通り、新幹線のホームに上がった。ここまで来れば安全だ——たぶん。
早川がベンチに座り込んだ。額に汗。
「鷺宮さん……俺、もうこういうの無理かもしんない」
「すまない」
「すまないって——命の危険じゃないって言ったのに。大仏見に行くだけだって——」
「想定が甘かった。黒田は——俺が思っていたより本気だ」
「あいつらって黒田の部下すか」
「確証はない。だが鎌倉の大仏、書陵部の申請、そして今日——。俺の行動を追跡している人間がいる。黒田か、黒田の関係者か」
新幹線が来た。二人は乗り込み、席に沈んだ。
直人は懐から真鍮の筒を取り出した。両端の蝋を、指先で慎重に確認する。密封は完全だ。四百二十三年間、湿気を遮断していた。
「開けていいすか」
「帰ってから。ここでは周りの目がある」
新幹線が動き出した。姫路城の白い天守が、車窓の向こうで遠ざかっていく。
四百年前に誰かが石垣に仕込んだ筒。それが明治時代に御料車の隠し引き出しに隠された石の欠片によって、今日、取り出された。
仕込んだ人間と、石の欠片を御料車に隠した人間は、同じ人物ではないだろう。四百年の時間差がある。だが二人は——同じ秘密を共有していた。
直人は窓の外を見つめた。夕暮れの播磨平野が流れていく。
まだ途中だ。真鍮の筒の中身を見るまでは、何も分からない。
シェアオフィスに戻ったのは夜九時過ぎだった。
直人は修復台の上に真鍮の筒を置き、LEDライトで照らした。筒の表面に錆はない。真鍮は銅と亜鉛の合金で、適切に密封されていれば数百年は持つ。
蝋を剥がす。修復士の道具——極細のヘラを使い、蝋を傷つけないように慎重に除去した。蝋自体にも何か情報があるかもしれない。
蝋が取れると、筒の蓋が外れた。中に——薄い金属板が丸められて入っていた。
金属板を引き出す。真鍮製。縦五センチ、横八センチほど。表面に線刻。
地図だった。
日本のある地域の海岸線が、線刻で描かれている。島が点在している。独特の入り組んだ海岸線。そして——地図の一箇所に×印。
「これ……瀬戸内海っすか」早川がモニターにGoogleマップを表示して見比べた。「この海岸線の形——広島と山口の間あたり? いや、もっと西——」
「瀬戸内海だ。×印の位置は——」
直人は地図の海岸線とGoogleマップを照合した。線刻は簡略化されているが、島の配置で特定できる。
「厳島だ。×印は——厳島神社」
「厳島神社! 黒田の資料に出てきた五カ所のうちの一つ——」
「ああ。鎌倉、姫路、京都、日光、厳島。宝が分散された五カ所のうち三番目の手がかりだ」
金属板を裏返した。裏面にも文字がある。線刻で——
「汝、鏡を持つ者のみ此処に至れ」
鏡を持つ者。
直人は御料車から出てきた真鍮の凸レンズを見つめた。レンズは鏡ではない。だが光を扱う道具という意味では——
「鏡……レンズ……」
そしてもう一つの遺物——巻物の断片。「続きは水鏡に映せ」。
水鏡。鏡。凸レンズ。
まだ繋がらない。だが三つの手がかりが、同じ方向を指している。
「次は厳島か」直人は呟いた。
「広島っすよね。遠い——」
「遠い。だが行くしかない。——そしてその前に、この巻物の断片を読み解く必要がある。『水鏡に映せ』の意味を」
直人は巻物の断片を修復台の上に広げた。古い和紙。墨書き。「続きは水鏡に映せ」。
水面に映して読む。つまり——文字が反転している。鏡文字。
だが目の前の文字は鏡文字ではない。普通に読める。「続きは水鏡に映せ」と。
ならばこの文字自体が情報ではなく、指示だ。この巻物を水面に映すと、何か別のものが見える——ということか。
直人は巻物を光に透かした。修復士の習性。
和紙の繊維の中に——何かがある。墨の文字の裏側に、もう一層の文字が透けて見える。和紙の裏面に書かれた、別の文章。だが直接裏を見ても読めない。表の墨が邪魔をしている。
「二重書き——。表と裏に別の文章が書いてある。だが表の墨が濃くて、裏の文字が読めない。水面に映すと——」
「反転するから、裏の文字が表になる?」
「そうだ。だが水面はぼやける。普通の水面では文字が判読できない。だから——」
直人は真鍮の凸レンズを手に取った。
「このレンズで、水面の反射像を拡大する。レンズ越しに水面を見れば、反転した裏面の文字が読める」
「巻物+水面+レンズ。三つ揃って初めて読める。——すげえ仕掛けっすね」
「仕掛けた人間は、この三つがバラバラの場所に隠されることを前提にしている。三つ揃えた者だけが次の手がかりを得られる」
直人は試してみたかったが、ここにきれいな水面はない。シェアオフィスの洗面台では不十分だ。風のない、平らな水面が必要。
それは——厳島で試すべきなのかもしれない。厳島神社は海の上に建っている。潮が満ちれば回廊の下に海水が広がり、潮が引けば砂浜が現れる。干潮時の潮だまりなら、風の影響を受けにくい平らな水面が得られる。
「厳島で、水鏡を試す。巻物の裏面を読む。そして金属板の×印が示す場所に行く」
「いつ行くっすか」
「できるだけ早く。——だが黒田に動きを悟られないようにする必要がある」
直人は窓の外を見た。池袋の夜景。ビルの灯りが星のように瞬いている。
姫路での追跡。黒田の手の者が直人を追っている。次に動けば、また追われるだろう。
だが止まるわけにはいかない。止まれば、黒田が先に辿り着く。
祖父の声が聞こえる。「じいちゃんが見つけたものは、本物だった」。
本物だった。御料車の隠し引き出し。姫路城の石垣のギミック。四百年の秘密。
それを、独り占めにはさせない。祖父の三十年の研究を、誰かに横取りはさせない。
直人は三つの遺物——レンズ、巻物、金属板——を布に包み、カバンの底にしまった。旧一円札も一緒に。すべてを肌身離さず持ち歩く。
これ以上は、どこにも隠さない。




