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星霜の蔵  作者: nose360
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第五話 祖父の敵  

鉄道博物館からの帰り道、直人のスマートフォンが鳴った。

 非通知。

「鷺宮直人さんですか」

 男の声。落ち着いた低音。五十代か六十代。

「どちら様ですか」

「黒田と申します。黒田総一郎。——清一郎先生の教え子です。先生のご逝去を知り、お悔やみを申し上げたく」

 直人の背筋が伸びた。早川が隣で、直人の表情の変化に気づいた。

「黒田——さん」

「突然のお電話で申し訳ない。先生とは二十年ほどお会いしていませんでしたが、訃報を聞いて居ても立ってもいられず。——一度、お会いできないでしょうか。先生の思い出話をしたいのです」

 声は穏やかだった。だが直人は、祖父のノートの記述を思い出していた。「黒田は焦りすぎる」「証拠不十分で発表し、学界から孤立」「やむを得ず、ノートを分割」。

「どうやって俺の電話番号を」

「先生から以前いただいた年賀状に、お孫さんの連絡先が書いてありましてね。緊急の時はこちらに、と」

 祖父が黒田に直人の連絡先を教えていた。いつの話だ。決裂する前か、後か。

「お会いするのは構いませんが、まず一つ聞かせてください。祖父の研究ノートを、お持ちですか」

 電話の向こうで、わずかな沈黙。

「……先生は、お孫さんにノートのことを話されていたのですか」

「遺品の中にありました」

「そうですか。——ええ、私の手元にも、先生と共同研究していた時期の資料があります。先生のノートの一部ではなく、私自身の調査記録ですが」

「それを見せていただけますか」

「もちろん。——ただし、お互いの手持ちを共有する形でいかがでしょう。鷺宮さんがお持ちのノートも、拝見させていただきたい」

 情報の交換。合理的な提案だ。だが直人は即答しなかった。

「場所と日時を決めましょう。——こちらからご連絡します」

「承知しました。楽しみにしています。——先生のお孫さんに会えるのは、嬉しいことです」

 電話が切れた。

 早川が直人の顔を覗き込んだ。

「黒田ってあの——」

「祖父の元共同研究者。今も同じものを追っている男だ」

「向こうから連絡してきたんすか。タイミング良すぎないすか」

「良すぎる」

 直人は考えた。黒田が祖父の死を知って連絡してきた。それ自体は不自然ではない。だがタイミングが——直人が御料車の隠し引き出しを見つけた、まさにその日。

 偶然か。それとも、直人の動きを誰かが見ていたのか。鎌倉大仏の胎内にいたグレーのジャケットの男。あの男が黒田の関係者だとしたら——

「早川。鎌倉で見た男を覚えているか。胎内にいた、グレーのジャケットの——」

「覚えてますよ。カメラ持ってたのに撮ってなかった人」

「あの男が俺たちを尾行していた可能性がある」

「えっ——」

「確証はない。だが黒田が祖父と同じ宝を追っているなら、祖父の孫が動き出したことを察知して、監視をつけてもおかしくない」

 早川の顔から血の気が引いた。

「それ、けっこうヤバい話じゃないすか」

「ヤバいかもしれない。だが——黒田に会わないという選択肢はない。黒田の手元に、祖父の研究の一部がある。それを見なければ、全体像が分からない」

「罠かもしれないっすよ」

「かもしれない。だから、準備して行く」


 黒田との面会は、三日後。場所は赤坂の「黒田歴史研究所」。ビルの三階の一室。

 直人は一人で行った。早川には「外で待機して、一時間以内に連絡がなかったら警察に電話しろ」と伝えた。大げさだと思ったが、念のためだ。

 研究所のドアを開けると、書籍と資料に埋もれた部屋だった。壁一面の本棚。机の上に古い地図。紙の匂い。——祖父の部屋と似ている。

 奥の椅子から、男が立ち上がった。

 五十五歳。白髪交じり。痩せている。だが目が——鋭い。学者の目だ。知識に飢えた目。

「鷺宮直人さん。——先生に似ていらっしゃる。目元が」

「黒田さん」

「どうぞ、おかけください。お茶を——」

「結構です。——早速ですが、本題に入りたい」

 黒田は微笑んだ。温和な笑み。だが直人は、その笑みの奥にある計算を感じた。この男は、直人が何を持っているか探ろうとしている。

「先生のノートは、お持ちですか」

「コピーを持ってきました。原本は別の場所にあります」

 直人はノートの一部をコピーした紙束をテーブルに置いた。ただし、御料車に関する記述と、鎌倉大仏の紋章の詳細は意図的に省いてある。全てを見せるつもりはない。

 黒田がコピーに目を通した。読むのが速い。学者の読み方だ。

「……一九九三年の文書発見。旧一円札。三つの穴。——先生はここまで辿り着いていたのですか」

「黒田さんの資料も見せてください」

 黒田が机の引き出しから、茶封筒を取り出した。中にはA4の紙が数十枚。手書きのメモと、印刷された地図。

「私の調査記録です。先生と共同研究していた時期のものと、その後の独自調査の記録」

 直人は紙を手に取った。

 黒田の調査は、祖父とは異なるアプローチだった。祖父が物証——紙幣や建造物——を追ったのに対し、黒田は文献を追っている。幕末の藩士の日記、明治政府の内部文書、旧華族の書簡。

 そしてその中に——直人の知らない情報があった。

「慶応四年三月、江戸城の宝物蔵から大量の物品が搬出された記録。搬出先は五カ所。日光、鎌倉、姫路、京都、厳島」

 五カ所。祖父が見つけた文書の「五ヶ所ニ分散完了」と一致する。

「これらの場所に——」

「宝が分散されたのです。日光東照宮、鎌倉大仏、姫路城、京都御所、厳島神社。いずれも、政権が変わっても破壊されない場所。日本の——聖域とも言うべき場所です」

 黒田の声に熱がこもった。二十年間追い続けてきた男の熱だ。

「そして宝の場所を示す地図は、一枚の紙ではなく、複数の暗号に分割されて、日常の中に隠された。紙幣、建造物、装飾品——壊されないもの、捨てられないものの中に」

 直人は黒田を見つめた。この男は、全体像を把握している。祖父よりも広い視野で。

 だが——何かが引っかかる。黒田が自分の情報を開示するのが、早すぎる。見返りに直人の情報を得るためだとしても、初対面でここまで見せるのは不自然だ。

「黒田さん。一つ聞いていいですか」

「何でしょう」

「祖父と決裂した理由は」

 黒田の表情が一瞬だけ固まった。だがすぐに柔らかい笑みに戻った。

「先生は慎重すぎた。証拠が揃うまで公表するなとおっしゃった。だが私は——学界に認められたかった。功を焦った。結果、叩かれて東大を追われた」

「後悔していますか」

「していますよ。先生の言う通りにしていれば、今頃は——」

「今頃は?」

「……二人で、宝を見つけていたかもしれない」

 直人は立ち上がった。

「ありがとうございました。資料は後日、詳しく拝見させてください」

「もちろん。——鷺宮さん。一つ提案があるのですが」

「何ですか」

「協力しませんか。先生のノートと、私の資料。合わせれば、全体像が見える。一人で追うより、二人のほうが早い」

 直人は答えなかった。会釈して研究所を出た。

 ビルの外で早川が待っていた。

「どうだったすか」

「情報は得た。——だが信用はできない」

「黒田って人、ヤバい人?」

「分からない。少なくとも頭はいい。そして——俺の手の内を探ろうとしていた」

「協力するんすか」

「しない。少なくとも今は」

 直人はビルを見上げた。三階の窓。黒田の研究所。あの部屋で、男は二十年間、同じ宝を追ってきた。祖父に捨てられ、学界に捨てられ、それでも追い続けた。

 その執念は——尊敬に値するかもしれない。だが同時に、危険でもある。

 二十年間の執念は、簡単に手放せない。宝を見つけた時、黒田がそれを公正に扱うかどうか——直人には確信が持てなかった。


 その夜。シェアオフィスで黒田の資料を読み返していると、直人のスマートフォンに見知らぬ番号から着信があった。

「鷺宮直人さん? 九条真琴です。書陵部の」

「九条さん——」

「閲覧申請の件でお電話しました。——審査が通りました。来週、書陵部で閲覧が可能です」

「ありがとうございます。助かります」

「それと——もう一つ」真琴の声が少し低くなった。「鷺宮さんの申請と同じ文書について、別の方からも閲覧申請が出ています。黒田総一郎さんという方です。——ご存知ですか」

 直人は受話器を握る手に力がこもった。

「……知っています。祖父の元共同研究者です」

「黒田さんの申請は、鷺宮さんの申請の翌日に届いています。——偶然かもしれませんが、念のためお伝えしておきます」

 直人の申請の翌日。つまり黒田は、直人が書陵部に何を申請したかを知っている。書陵部の内部に情報源があるのか、あるいは直人の行動を監視しているのか。

「九条さん。一つお願いがあります」

「何でしょう」

「閲覧の日時を、黒田さんとは別の日にしていただけますか」

 少しの沈黙。

「……承知しました。調整します。——鷺宮さん」

「はい」

「お気をつけて」

 電話が切れた。

 直人はスマートフォンを見つめた。九条真琴。規則通りに門前払いをした女性が、規則の外から警告をくれた。

 黒田が動いている。直人と同じ文書を、同じタイミングで求めている。

 レースが始まっている。直人が望むと望まざるとにかかわらず。

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