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星霜の蔵  作者: nose360
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第三話 門前払い  

鎌倉から戻って三日後。直人は皇居に向かっていた。

 目的は宮内庁書陵部。祖父が勤めていた場所であり、幕末期の宮内省記録——祖父が「鍵は旧札にあり」の文書を見つけた場所だ。

 あの文書の原本を見たい。祖父のノートには引用があるが、原本を直接確認しなければ、細部が分からない。そして書陵部には、祖父を知る人間がまだいるかもしれない。

 皇居の桔梗門から入る。東御苑は一般公開されているが、書陵部の庁舎は通常の見学コースからは外れている。直人は受付で名前を告げ、閲覧の申請をした。

「恐れ入りますが、閲覧には事前の書面申請が必要です。本日は受付できません」

 受付の男性職員が、丁寧だが隙のない口調で言った。

「幕末期の宮内省記録を閲覧したいのですが。慶応四年三月の文書です」

「文書の特定には、目録番号が必要です。目録番号をお持ちですか」

「いえ。祖父が以前閲覧した記録で——」

「お祖父様のお名前は」

「鷺宮清一郎。元書陵部の——」

 職員の表情がわずかに変わった。変わったが、すぐに元に戻った。

「鷺宮清一郎さんですか。——少々お待ちください」

 職員が奥に引っ込んだ。五分ほど待つと、別の人物が出てきた。

 女性。二十代後半。紺のスーツ。髪を一つに結んでいる。表情は硬い。だが目に、知性の光がある。

「鷺宮直人さんですか。——九条真琴と申します。書陵部の学芸員です」

「九条さん。祖父の——」

「鷺宮清一郎さんのことは存じ上げています。書陵部にいらした頃、私はまだ学生でしたが、先輩方からお名前はよく伺っていました」

 直人は少し安堵した。祖父を知っている人間がいる。話が早い。

「祖父が閲覧していた慶応四年の文書を見たいのですが——」

「申し訳ありませんが」九条真琴は直人の言葉を遮った。丁寧だが、刃物のように正確な遮り方だった。「書陵部の資料閲覧には、所定の手続きが必要です。研究機関に所属する研究者か、相応の理由がある個人による書面申請。審査には二週間から一ヶ月かかります」

「二週間——」

「それが規定です。例外はありません」

 真琴の声には、一切の交渉の余地がなかった。規則を守ることが仕事の人間の声だ。

「九条さん。祖父は先日亡くなりました。遺品を整理する中で、祖父の研究を引き継ぎたいと考えています。祖父が書陵部で見つけた文書の原本を確認したい。それだけです」

「お悔やみ申し上げます。——ですが、鷺宮清一郎さんは書陵部を退職された方です。退職後の個人的な研究に基づく閲覧申請は、通常の手続きに従っていただく必要があります」

「通常の手続きでは間に合わないかもしれない」

「間に合わない、とは?」

 直人は言葉を選んだ。「同じ資料を追っている人間が他にもいる」と言えば、事態の緊急性は伝わるかもしれない。だが同時に、自分が何を探しているかを明かすことにもなる。

「——いえ。手続きに従います。申請書はどこでもらえますか」

 真琴が申請書類を渡した。直人が受け取る時、一瞬だけ指が触れた。真琴がわずかに手を引いた。

「鷺宮さん」

「はい」

「一つだけ、お伝えしておきます」真琴の声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。公務員の声から、個人の声に。「鷺宮清一郎さんは、書陵部では優秀な修復士として知られていました。退職の経緯は——残念でした。でも、先輩方は今でも鷺宮さんの腕前を尊敬しています」

 直人は真琴を見つめた。

 硬い表情。だがその奥に——祖父への敬意がある。規則で門前払いをしながら、個人としては祖父を認めている。矛盾した態度だが、誠実な矛盾だった。

「ありがとうございます。——申請書、すぐに出します」

 直人は書陵部を出た。桔梗門をくぐり、皇居の外に出る。内堀の水面が午後の光を反射していた。

 門前払い。予想はしていた。だが実際に断られると、苛立ちがこみ上げる。祖父は三十年間、この場所で働いていた。その孫が資料を見たいと言っているだけなのに。

 だが九条真琴は正しい。文化財の管理とは、そういうものだ。誰でも自由に触れられるなら、管理する意味がない。

 直人は堀沿いを歩きながら、もう一つの目的地のことを考えた。

 旧一円札の穴が指す三地点。鎌倉大仏は確認した。次は——東京駅。


 東京駅丸の内駅舎のドーム天井は、二〇一二年の復元工事で創建当時の姿に戻されている。

 南北に二つあるドーム。天井の高さ約三十五メートル。八角形の天井に、精緻な浮き彫り装飾が施されている。そして——干支のレリーフ。

 直人は南ドームの下に立ち、天井を見上げた。八角形の各辺に、動物のレリーフが配されている。ねずみうしとら——全部で八つ。

 だが十二支は十二だ。八つしかない。

 祖父のノートに書かれていた。一九四五年の空襲で駅舎が被災し、三階部分とドームが焼け落ちた。戦後の修復で二階建てに縮小され、ドームは簡素な形に作り替えられた。その際、十二支のうち八つだけが残され、辰・卯・午・酉の四つが失われた。

 二〇一二年の復元で、失われた四つの干支が新たに制作され、ようやく十二支が揃った。つまり今見えている十二の干支のうち、八つは創建当時のオリジナルで、四つは復元品だ。

 直人は祖父のノートの記述を思い出した。

「欠けた四つの干支。辰=東南東、卯=東、午=南、酉=西。この四つは方位を表す。東京駅を中心にこの四方位に線を引くと——」

 スマートフォンの地図アプリを開き、東京駅を中心に四本の線を引いた。東南東、東、南、西。

 四本の線は、東京近郊の四つの方向に伸びていく。それだけでは何も分からない。だが祖父は「偶然かもしれない」と書いた後に、こう続けている。

「菊紋の十四枚(二枚欠落)と合わせて考えると、『欠けたもの』にこそ意味がある、という法則が見える」

 欠けたものに意味がある。

 直人はドームを見上げながら考えた。復元前の東京駅を知りたい。復元後の干支は新しく作られたもの——つまり暗号とは無関係だ。重要なのは、復元前に「何がなかったか」。

 そのためには、戦前の東京駅の設計図面か、復元前の写真が必要だ。

 ノートをさらに読む。祖父は設計図面を探していた。

「設計図面の所在を調査中。辰野金吾の原図は東京大学建築学科に保管されているが、ドーム天井の装飾に関する詳細図面は散逸。——ただし、鉄道博物館(大宮)に復元工事の記録一式が保存されている可能性あり」

 鉄道博物館。大宮。

 そこに何があるのか、祖父のノートには結論が書かれていない。この後の調査記録が途切れ、次の項目に移っている。ノートが二冊しかない——つまり記録の一部が欠落しているために、途中経過が追えない。

 だがもう一つ、祖父のノートに気になる記述があった。鉄道博物館に関する項目の横に、鉛筆で小さく書き加えられている。

「御料車。確認せよ」

 御料車。天皇や皇族が鉄道で移動する際に使用する特別車両。鉄道博物館には、明治時代の御料車が実物展示されている。

 祖父は御料車に何を見つけたのか。あるいは何を探そうとしていたのか。

 直人はドームの下を離れ、東京駅の中央通路を歩いた。平日の昼下がり、駅は人でごった返している。この駅を毎日何十万人が通過する。天井を見上げる人は、ほとんどいない。干支のレリーフに気づく人は、もっと少ない。

 四つの干支が六十七年間欠けていたことを知る人は、さらに少ない。

 そしてその「欠け」に意味があると考えた人間は——祖父と、おそらく黒田総一郎だけだ。


 シェアオフィスに戻ると、早川が待っていた。

「鷺宮さん。大仏の写真、解析終わりましたよ」

 早川のモニターに、赤外線画像が映し出されている。菊紋の浮き彫りを赤外線で撮影したもの。通常の写真よりも、彫りの輪郭がはっきり見える。

「花弁の間隔を計測しました。十四枚の花弁は、等間隔じゃないんすよ」

「等間隔じゃない?」

「十二枚は均等配置。でも残りの二枚だけ、間隔がわずかに広い。本来十六枚あるべき場所のうち、二枚が欠けていて、その両隣の花弁が欠けた分だけ広がっている」

「つまり——どの二枚が欠けているか、正確に特定できるということか」

「はい。欠けているのは、十六枚を時計に見立てると、二時と八時の位置の花弁です」

 二時と八時。紋章の中で、対角線上に位置する二枚。

「方角に直すと——」

「菊紋の上が北だと仮定すると、二時は北北東、八時は南南西。——これ、何かの方角を指してるんすかね」

 北北東と南南西。直人は頭の中で地図を広げた。鎌倉大仏を中心に、北北東と南南西に線を引く。

 北北東——東京方面。

 南南西——箱根方面、あるいはその先——

 まだ繋がらない。情報が足りない。だが断片が増えてきている。旧一円札の穴。大仏の菊紋。東京駅の欠けた干支。祖父のノートの「御料車。確認せよ」。

「鷺宮さん。次はどこに行くんすか」

「鉄道博物館だ。大宮。——祖父が何かを見つけかけていた場所がある」

「御料車ってやつすか。明治天皇の電車」

「電車じゃない。客車だ。——早川、一つ問題がある。鉄道博物館の御料車は展示品だ。ガラスケースに入っている。触ることはできない」

「触る必要があるんすか」

「修復士は触らないと分からないことがある。——だが方法は考える」

 直人は窓の外を見た。池袋の雑踏。ビルの谷間に、夕日の残照が落ちている。

 祖父が「手がかりは揃った」と書いたのは二〇一八年。あと少しで全体像が見えるところまで来ていたはずだ。だが祖父は、直人にすべてを伝える前に死んだ。

 ノートの断片を繋ぎ合わせて、祖父の足跡を辿るしかない。

 そして——できるだけ早く。同じ道を追っている人間が、他にもいるのだから。

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