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星霜の蔵  作者: nose360
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第二話 仏の胎内  

九月二十二日。秋分の日。快晴。

 池袋から湘南新宿ラインで鎌倉へ。早川は巨大なリュックを背負っていた。一眼レフカメラ、ミラーレス、赤外線カメラ、三脚、LEDライト、モバイルバッテリー。

「重すぎだろ」

「何が必要か分かんないんで全部持ってきたっす」

 鎌倉駅からバスで高徳院へ。九月の陽光に照らされた大仏は、青銅の表面に緑青が浮いて鈍い緑色に輝いている。台座を含めた高さ十三メートル超。子供の頃に祖父と来た時は、もっと大きく感じた。

 直人は大仏を見上げた。穏やかな顔。半眼。

「七百五十年以上、ここに座っている。津波で大仏殿が流されて、室町時代から露坐だ。何度も再建計画が出たが全部頓挫して、結局ずっと野ざらしのまま。——だがこの仏像には、外のほうが似合う」

「修復士っぽい感想っすね」

 胎内の入り口に並んだ。拝観料を払って中に入る。

 胎内は暗い。外の陽光が嘘のように、内部はひんやりと薄暗い。銅板の継ぎ目が内壁のあちこちに見える。七百五十年前の鋳造技術の痕跡だ。

 直人は壁に手を触れた。冷たい銅。表面にわずかなざらつきがある。修復士の指は、微細な凹凸を読み取る。視覚よりも先に、触覚が情報を拾う。

「光は——あそこっすね」早川が背面を指した。

 大仏の背中に、二つの四角い窓がある。大仏殿があった時代には不要だった窓だが、露坐になってからは換気と採光の役割を果たしている。

 午前十時。太陽は東。二つの窓から差し込む光は、角度が低く、胎内の床を斜めに照らしているだけだ。

「午後三時まで五時間。先に壁の全面を記録しておこう」

 二人は胎内の壁面を系統的に撮影した。早川が一眼レフで通常撮影、赤外線カメラで赤外線撮影を同時に行う。直人は壁を手で触りながら、凹凸をチェックしていく。

 直人の指が、ある場所で止まった。

 壁面に、かすかな線がある。目では見えない。だが指先には——浅い溝。円弧の一部。直径二十センチほど。

「早川。ここを撮ってくれ。赤外線で」

 早川が赤外線カメラを向けた。液晶モニターに画像が映る。通常の光では見えにくい浅い線刻が、赤外線ではわずかにコントラストが上がる。

「確かに何かある。円の一部……? 全体はまだ見えない」

「午後三時の光で見えるはずだ」

 一度胎内を出て、参道の蕎麦屋で昼食を取った。直人は祖父のノートを広げ、午後の調査に備えた。早川がざるそばをすすりながら覗き込む。

「おじいちゃん、三十年分のメモか。すげえ量」

「この二冊に全部入っている」

「三十年で二冊は少なくないすか。おじいちゃんマメな人なんでしょ?」

 直人は箸を止めた。確かに少ない。修復士としての業務日誌は、年に一冊のペースで書いていた人だ。三十年の研究で二冊というのは、不自然に少ない。

 ノートの二冊目の冒頭に、気になる記述があった。

「黒田への警告。このノートの内容を第三者に開示しないこと。二〇〇五年七月一日」

「黒田——」

「誰すかそれ」

「分からない。まだ調べていない」

 ノートを読み進める。

「二〇〇五年七月。黒田総一郎氏(東京大学准教授)が、共同研究の成果を単独で学会発表しようとしている。証拠が不十分であると警告したが聞かない。やむを得ず、ノートを分割し、後半の調査記録は黒田に見せないこととする」

 共同研究者がいた。しかもその人物と決裂している。

「二〇〇五年十月。黒田氏、日本近世史学会で「徳川幕末期における財宝分散の可能性」を発表。証拠不十分と批判され、学界から孤立。東大を事実上追放。——警告したのに」

 直人はノートを閉じた。この黒田という人物が、祖父のノートの一部を持っている可能性がある。共同研究をしていたのなら、データの共有があったはずだ。

「早川。黒田総一郎で検索してくれ。元東大准教授。日本近世史」

 早川がスマートフォンを操作した。

「出てきた。——現在は港区赤坂で『黒田歴史研究所』を運営。ウェブサイトもある。二〇二〇年の講演タイトルが『幕末の失われた財宝——徳川埋蔵金伝説の再検証』。——まだ同じことやってるっぽいすよ」

「同じ宝を追っている人間が、他にもいるということだ」

「ライバルってこと?」

「まだ分からない。——だが気をつけたほうがいい」

 早川が蕎麦をすする手を止めた。少し表情が曇ったが、すぐに持ち直した。

「まあ、今日はとりあえず大仏っすよ。あと二時間」


 午後二時四十五分。再び胎内。

 午後の太陽は西に傾き始めている。二つの背面窓から差し込む光の角度が、午前中とは明らかに変わっていた。

 二本の光の帯が壁面を照らしている。太陽が移動するにつれ、帯が壁の上方に向かって少しずつ動いていく。

 早川が三脚にカメラを固定し、タイムラプス撮影を開始した。

「光が動いてる。あと十五分——」

 直人は壁の前に立ち、二本の光の帯を見つめた。まだ離れている。だが角度が変わるにつれ、少しずつ近づいている。

 午後二時五十五分。二本の帯の距離が、手のひら一つ分に。

 午後二時五十八分。帯が重なり始めた。

 午後三時——

 二本の光が、一点で交差した。

 直人が午前中に触感で見つけた円弧の線刻の——真上。

 交差した光が壁を照らした瞬間——浮き彫りが浮かび上がった。

 紋章。菊の御紋に似た、花の形。中心から放射状に花弁が広がっている。

 直人は花弁を数えた。一、二、三——十四。

「十四枚。祖父のノートの通りだ」

「うわ——出た!」早川がシャッターを連射した。「赤外線でも撮る——」

 紋章は浅い浮き彫りだった。通常の照明では影がつかず、ほぼ見えない。だが秋分の日の午後三時、二つの窓からの光が交差する角度でのみ——浮き彫りが視認できるコントラストが生まれる。

 年に一度。この数分だけ。

「これを彫った人間は、この現象を計算していた。光が交差する位置と角度を知った上で、紋章をこの壁面のこの高さに彫っている。光が来ないと見えないように、意図的に浅く彫っている」

「何百年前の話すか」

「大仏は十三世紀だが、紋章はもっと新しい。幕末——十九世紀だろう。菊紋を扱える人間は限られる。宮中に近い人物だ」

 光が動いた。三時を数分過ぎると、二本の光の帯が再び離れ始める。紋章が薄れていく。影のコントラストが消え、のっぺりとした銅の壁面に戻っていく。

「十四枚の菊紋」直人は指で花弁をなぞった。「十六枚が正式な菊の御紋。二枚足りない。偶然じゃない。この精緻さで彫れる職人が、花弁の数を間違えるはずがない」

「二枚足りないのに、何の意味が」

「分からない。だが祖父のノートには——」

 直人が言いかけた時、背後で足音がした。

 胎内は狭い。大人が三人も入れば窮屈だ。直人と早川の他に、もう一人いる。

 振り返ると、男が立っていた。四十代。グレーのジャケット。眼鏡。観光客の服装ではない。手にカメラを持っているが、構えてはいない。

 男は直人と目が合うと、軽く会釈した。

「失礼。混んでいますね」

 標準的な日本語。特に変わったところはない。だが直人は、男の視線が壁面——紋章のあった場所——に向けられていたことに気づいた。

 光はもう交差していない。紋章は見えなくなっている。だが男は、紋章があった場所を見ていた。

「——行くぞ、早川」

 直人は早川の腕を掴み、胎内を出た。早川が小走りについてくる。

「どうしたんすか急に」

「あの男。カメラを持っていたが、一枚も撮っていなかった。観光客なら撮る。撮らないのに胎内に入ってきたということは——」

「まさか、俺たちを見てた?」

「分からない。だが——偶然にしては気になる」

 高徳院の境内を足早に出た。参道を歩きながら、直人は何度か振り返った。グレーのジャケットの男は、追ってきてはいない。

 だが嫌な感覚が残った。修復士の勘だ。紙の異変を感じる時と同じ——微かだが確かな違和感。

 鎌倉駅に向かう道で、早川が言った。

「鷺宮さん。さっきの紋章の写真、全部撮れてます。赤外線も。あとで解析すれば、彫りの深さとか材質とか分かるかも」

「ありがたい。——早川。一つ頼みがある」

「何すか」

「今日撮った写真は、クラウドにアップするな。外付けHDDだけに保存してくれ。ネットに上がると誰が見るか分からない」

「了解っす。オフライン管理。——鷺宮さん、けっこう慎重っすね」

「祖父は慎重じゃなかった。だから笑い者にされた。——同じ轍は踏まない」

 帰りの電車の中で、直人は窓の外を見つめた。鎌倉の海が遠ざかっていく。

 大仏の胎内に、秋分の光でだけ見える十四枚の菊紋。祖父が三十年前に見つけたものと同じ。紙幣の穴が指す三地点の一つが、確かにここだった。

 残り二つ。東京駅と国立印刷局。

 そして——黒田総一郎という、まだ顔を見たことのない男。祖父と同じ宝を追っている男。

 直人は祖父のノートを膝の上に置いた。二冊のノートに、三十年分の調査記録。だがこの二冊は全体のごく一部かもしれない。残りが黒田の手元にあるとしたら——

 車窓の向こうに、夕日が落ちていく。秋分の日の太陽は、真西に沈む。真東から昇り、真西に沈む。一年で二回だけ——春分と秋分の日にだけ起きる、正確な東西の軌道。

 誰かがその精密さを利用して、大仏の中に紋章を仕込んだ。百五十年前に。

 三つの穴は、何を示しているのか。欠けた二枚の花弁は、何を意味しているのか。

 直人にはまだ分からなかった。だが——祖父の声が、耳の奥で鳴っている。

 じいちゃんが見つけたものは、本物だった。

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