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星霜の蔵  作者: nose360
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第十五話 正門の前で  

星霜蔵の発見は、静かに、しかし確実に世に出た。

 直人は家康の遺言書を、東京国立博物館に持ち込んだ。真琴が書陵部を通じて宮内庁に報告し、文化庁が動いた。

 遺言書の鑑定には二週間かかった。紙質、墨の成分、筆跡の分析。結論は——「真筆の可能性が極めて高い。少なくとも江戸初期の文書であることは間違いない」。

 この鑑定結果が公表された瞬間、日本中が沸いた。

 テレビ、新聞、ネット。「徳川埋蔵金、ついに発見」「日光東照宮の地下に四百年の秘密」「家康の遺言書、原本を確認」。

 直人は記者会見に出た。東京国立博物館の講堂。カメラのフラッシュが瞬く中で、直人は淡々と経緯を説明した。祖父の三十年間の研究。旧一円札から始まった謎解き。鎌倉、東京、姫路、厳島、京都、日光。そして地下の石室。

「発見者は——」記者が質問した。「鷺宮さんお一人ですか」

「いいえ。祖父の鷺宮清一郎が三十年間の研究で道を開き、九条真琴さんが古文書の専門知識で暗号を解読し、早川雅彦さんがテクノロジーで支えてくれました。——そして」

 直人は言葉を切った。会場の隅に、黒田総一郎が立っていた。グレーのスーツ。痩せた顔。だが——目が違った。あの夜、石室で泣いた後の目。二十年間の執念が溶けた後の、穏やかな目。

「黒田総一郎さんも、祖父と共に二十年以上この研究に取り組んでこられました。黒田さんの文献調査なくして、この発見はありませんでした」

 黒田が目を伏せた。記者たちのカメラが黒田に向かった。

 会見の後、直人は黒田と廊下で二人きりになった。

「いいのか。私の名前を出して」

「じいちゃんの共同研究者だ。名前を出さないほうがおかしい」

「だが私は——お前の仲間を——」

「そのことは、真琴さんと早川に自分で謝ってくれ。俺からは何も言わない」

 黒田が頷いた。そして——深く頭を下げた。

「先生に——。鷺宮清一郎先生に、感謝を伝えてくれ。——いや。もう伝える必要はないか。先生は——もう——」

「じいちゃんは知ってると思う」

 黒田が顔を上げた。直人は窓の外を見ていた。上野公園の木々が、秋の陽光に輝いている。


 日光東照宮の地下石室の排水・発掘プロジェクトが、国家事業として正式に発足した。

 文化庁、宮内庁、東京国立博物館、日光市の合同プロジェクト。排水には数ヶ月、木箱の回収と中身の鑑定にはさらに数年かかると見られている。

 だが三十以上の木箱の中身が、すべて遺言書と同等の文化的価値を持つとすれば——日本の文化財の歴史が書き換わる。正宗の太刀。曜変天目。運慶の仏像。南蛮渡来の望遠鏡。

 そして他の四カ所——鎌倉、姫路、厳島、京都——の蔵にも、同様の宝が眠っている。五カ所すべての発掘が完了すれば、徳川二百六十五年間の収集品の全容が明らかになる。

 直人は発掘プロジェクトのアドバイザーに就任した。修復士として、出土した文化財の保存処理を担当する。フリーランスの仕事は——当分なくなりそうだ。

 早川は発掘プロジェクトの情報システム担当に招かれた。出土品のデジタルアーカイブ構築。「シェアオフィスの隣の席から、国家プロジェクトっすよ。人生何があるか分かんないっすね」と笑っていた。

 黒田は日光の発掘現場の学術顧問に就いた。文献調査の専門家として。二十年前に学界から追放された男が、学界の最前線に戻った。ただし——以前のような功名心はなかった。記者会見でも取材でも、黒田は控えめだった。「私は文献を読んだだけです。現場で扉を開けたのは、鷺宮直人さんです」と繰り返した。


 十一月の終わり。東京。

 直人は皇居に向かって歩いていた。

 桔梗門。紅葉が始まった御苑の木々が、午後の陽光に赤く燃えている。内堀の水面に、紅葉と空が映っている。

 書陵部の受付で名前を告げた。

「鷺宮です。九条さんに会いに来ました」

 受付の職員が内線をかけた。数分後、奥から真琴が出てきた。

 紺のスーツ。髪を一つに結んでいる。書陵部の学芸員の、いつもの姿。——だが直人は、その姿の奥に、海水に濡れた髪を知っている。月明かりの石室を駆けた足を知っている。LEDライトの中で曜変天目を見つめた目を知っている。

「鷺宮さん。——お仕事ですか」

「いや。飯でも食いに行かないかと思って」

 真琴が一瞬だけ目を見開いた。それから——いつもの硬い表情に戻った。だが口元が、ほんの少し。ほんの少しだけ、緩んでいた。

「……勤務時間中です」

「何時に終わる」

「五時半です」

「待つ」

「——正門の前で待っていてください。遅刻しないでくださいね」

 直人は書陵部を出た。桔梗門をくぐり、皇居の外に出た。

 内堀の向こうに、皇居の石垣が見える。江戸城の遺構。巨大な石が精緻に積まれている。石の一つ一つに、四百年前の石工の手が刻まれている。刻印は風雨に晒されて薄れているが、消えてはいない。

 直人は石垣を見つめた。

 あの石垣にも、どこかに誰かの刻印が残っているのかもしれない。まだ誰も気づいていない印が。見えているのに、見えていない秘密が。

 世界は秘密で満ちている。そしてそれを見つけるのは、いつだって——手を動かし、目を凝らし、耳を澄ます人間だ。

 祖父がそうだったように。

 直人は石垣に背を向けて、正門に向かった。五時半まで、まだ少し時間がある。

 堀沿いのベンチに座った。十一月の風が、紅葉の葉を一枚、直人の膝の上に落とした。赤い楓。完璧な形。虫食いもなく、変色もない。

 直人はその葉を手に取り、光に透かした。修復士の習性。

 葉脈が、光に透けて美しい網目を描いていた。

 五時二十五分。直人は立ち上がり、正門に向かった。

 正門の前に立つと、皇居の森が夕日に染まっていた。石垣が金色に光っている。空がオレンジから紫に変わっていく。

 五時三十分。

 正門が開いて、真琴が出てきた。

 スーツの上にベージュのコートを羽織っている。髪はいつもの一つ結び。だが——歩く速度が、いつもより少しだけ速かった。

 直人の前で立ち止まった。

「お待たせしました」

「待ってない。——今来たところだ」

「嘘ですね。ベンチに座っていたのが見えました。書陵部の窓から」

 直人は少し笑った。真琴も——少しだけ。

「何が食べたい」直人が聞いた。

「お任せします。——ただし甘いものは最後に」

「甘いもの好きなのか」

 真琴の頬が、夕日のせいなのか、わずかに赤くなった。

「……コンビニのスイーツは、一人の時だけです」

「じゃあ今日は、ちゃんとした店で食べよう」

 二人は並んで歩き始めた。皇居の森を背にして。石垣の金色の光を浴びながら。

 夕日が沈んでいく。秋の太陽。真西よりも少し南に寄った、十一月の夕日。

 春になれば——春分の日には、太陽は真西に沈む。あの日と同じように。鎌倉大仏の胎内で、二つの光が交差した、あの秋分の日と。

 直人のポケットの中に、旧一円札はもうない。黒田に渡してしまった。凸レンズも、巻物も、金属板も。

 だが直人の手には——修復士の手がある。壊れたものを直す手。見えないものを見つける手。

 そして隣には——一緒に歩いてくれる人がいる。

 直人と真琴は、東京の夕暮れの中を歩いていった。

 どこに向かうのかは、まだ決めていない。だがそれでいい。

 この国の宝は、金銀ではない。受け継ぐ者の心だ。

 家康が四百年前に書いた言葉。祖父が三十年かけて証明しようとした言葉。

 直人は——これから、その言葉を生きる。

(了)

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