第十四話 星霜蔵
石の扉の向こうは、闇だった。
LEDライトを向けると、光の輪が石壁に反射した。部屋だ。天井の高い、広い部屋。幅は十メートル以上。奥行きは——光が届かない。
空気は乾いていた。地下にしては異常なほど乾燥している。換気の仕掛けがあるのか、あるいは石の種類が湿気を遮断しているのか。修復士として直人は、この空気の質に安堵した。乾燥した空気は、文化財を保存するための最低条件だ。
三人は部屋の中に入った。
直人がLEDライトを壁に沿わせて動かすと——壁面に松明を受ける金具があった。松明は朽ちて消えているが、金具は残っている。かつてこの部屋は松明で照らされていた。
「早川。ランタンは」
「持ってきてるっす」
早川がリュックからLEDランタンを取り出し、最大光量にした。白い光が部屋全体に広がった。
三人は息を呑んだ。
木箱だった。
部屋の中に、木箱が並んでいた。整然と。列を成して。数えると——三十以上。
木箱は桐製だった。桐は湿気を通さず、虫もつきにくい。日本で古来、最高級の収納材として使われてきた木材だ。箱の表面に、墨で文字が書かれている。
直人は最も手前の箱に近づいた。蓋に書かれた文字を読む。
「『南蛮渡来 望遠鏡一式 慶長年間伝来』」
書陵部の文書に記されていた品目。宝物目録から消された品目の一つ。
蓋を開けた。桐の蓋は軽い。百五十年以上閉じられていた蓋が、するりと持ち上がった。
中に——真綿に包まれた金属の筒。望遠鏡。直人は白手袋で慎重に持ち上げた。真鍮製。レンズは曇っているが、保存状態は悪くない。南蛮渡来——ヨーロッパから日本に持ち込まれた、十六世紀か十七世紀の望遠鏡。
「本物だ——」直人の声が震えた。修復士として、手に触れた瞬間に分かった。金属の経年変化、真鍮の組成、レンズの研磨痕。これは本物の、四百年前のヨーロッパ製望遠鏡だ。
次の箱。「正宗太刀 銘不明」。
蓋を開けると、白鞘に収められた太刀。直人は鞘を少しだけ引いた。刃の地金が、LEDライトを受けて青白く光った。沸の粒が細かく散り、地鉄に映りが立っている。
「これは——」直人は刀を知り尽くした修復士の目で言った。「相州伝だ。鎌倉期の作。正宗かどうかは鑑定が要るが——極めて高い技術で鍛えられている」
真琴が別の箱を開けた。
「茶入れ——」
天目茶碗。黒い釉薬の表面に、青と紫の斑紋が浮かんでいた。曜変天目。光の角度で色が変わる。直人がLEDライトを動かすと、碗の内側に星空のような模様が明滅した。
「曜変天目——現存する三点はすべて国宝。もしこれが本物なら——四点目」
真琴の手が震えていた。学芸員として——この瞬間を待ち望んでいた、すべての文化財研究者の夢。失われたと思われていた至宝が、目の前に。
早川は写真を撮り続けていた。全方向から。すべての箱を。カメラのシャッター音が、石室の中で反響した。
「すげえ——すげえっすよこれ。三十箱以上あるんすよ。全部——」
「全部ではない」直人が言った。「これは五カ所に分散された蔵の——おそらく一つだ。他の四カ所にも、同様の蔵がある」
だが今は他の蔵のことは後だ。直人は部屋の奥に向かった。
最奥に、一つだけ離れて置かれた箱があった。他の箱よりも小さい。だが桐の質が最も上等で、表面に金箔で菊紋が押されている。
蓋の文字。
「『東照公御遺訓 原本』」
直人の手が止まった。
家康の遺言書の原本。
祖父が追い求めたもの。黒田が二十年間求めたもの。そして慶応四年、名もない徳川の臣が命を賭けて隠したもの。
直人は蓋を開けた。
中に——巻物が一本。白い絹に包まれている。絹を解くと、和紙の巻物。表紙に「東照公御遺訓」の文字。筆跡は——達筆だが、どこか人間味のある字。偉大な為政者の字というよりも、老人の字。晩年の家康が、自ら筆を取ったのかもしれない。
直人は巻物を少しだけ開いた。
冒頭の文。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず——」
知られた文言。だがその先に、知られていない文が続いていた。
直人は読み進めた。
「——此の蔵に辿り着きし者よ。汝は忍耐の道を歩みし者なり。此の国の宝は金銀にあらず。受け継ぐ者の心なり。蔵の中の物は、汝一人のものにあらず。すべて、民のために用いよ。独り占めにする者は、蔵の呪いを受けん。分かち合う者は、蔵の祝福を受けん」
直人は巻物を閉じた。
指が震えていた。
「——何と書いてあったんすか」早川が聞いた。
「この宝を独り占めにするな。すべて、民のために使え。——家康の遺言だ」
沈黙が石室を満たした。四百年前の声が、石の壁に反響するように。
「じいちゃん——」直人は呟いた。「見つけたよ」
その時——石段の上から、足音が聞こえた。
一人ではない。複数。
「誰か来る——」早川がランタンの光量を落とした。
足音が近づいてくる。石段を下りてくる音。そして——声。
「やはりここか。——先生の孫は、先生と同じ嗅覚を持っているようだ」
黒田総一郎。
石の扉の向こうから、黒田が現れた。背後にグレーのジャケットの男と、もう一人。三人。
「開けてくれていたおかげで、楽に入れましたよ」黒田が言った。石室を見回し、木箱の列を見て——目を見開いた。
「これは——」
「星霜蔵だ」直人が言った。「あんたが二十年間探していたもの」
黒田の目に、涙が浮かんでいた。学者の目。長年の夢が目の前にある人間の目。
だがその涙は、すぐに乾いた。黒田の表情が変わった。
「鷺宮さん。ご苦労でした。——ここから先は、私が引き受けます」
「引き受ける?」
「この蔵は、先生と私の研究の成果です。先生亡き今、第一発見者は私であるべきだ。学界に復帰するための——」
「第一発見者? あんたは扉一つ開けていない。俺たちが全部開けた」
「開けたのはあなたでも、研究の基盤は先生と私が作った。二十年間の蓄積があってこその——」
「二十年の蓄積で、あんたは何を見つけた。何一つ見つけられなかっただろう。御料車も。姫路の石垣も。大仏の菊紋も。全部——現場で手を動かした人間が見つけた。あんたは文献を読んだだけだ」
黒田の顔が歪んだ。痛いところを突かれた顔。
「それでも——この蔵の宝は、適切に管理されるべきです。私の研究所で保管し、然るべき手続きで学界に——」
「あんたの研究所で? それは独り占めと言うんだ」
「独り占めではない。学術的な管理を——」
「家康の遺言を読んだか」直人が巻物を持ち上げた。「『独り占めにする者は、蔵の呪いを受けん』。四百年前の言葉だ。——この宝は国のものだ。あんたのものでも、俺のものでもない」
黒田の目が巻物に釘付けになった。家康の遺言書。原本。学者として——これほどの発見はない。
「それを——見せてくれ」
「あんたには渡さない。この遺言書は、国立博物館に寄贈する」
「ふざけるな!」黒田の声が石室に反響した。「二十年だぞ。二十年間——先生に捨てられ、学界に捨てられ——それでも追い続けた。その成果を、お前のような——」
「じいちゃんはあんたを捨ててない」
直人の声が、黒田の声を切り裂いた。
「じいちゃんのノートを読んだ。あんたが論文を発表しようとした時、じいちゃんは止めた。『証拠が不十分だ』と。あんたはそれを『邪魔された』と思っただろう。——だがじいちゃんは、あんたを守ろうとしたんだ。不十分な証拠で発表すれば叩かれる。学者生命が終わる。じいちゃんはそれを防ごうとした」
黒田の表情が凍りついた。
「あんたが東大を追われた時、じいちゃんがどれだけ悔やんだか。ノートに書いてある。『黒田を止められなかった。私の責任だ』と。——じいちゃんはあんたを見捨てたんじゃない。止められなかった自分を、ずっと責めていた」
黒田の目から、涙がこぼれた。今度は——本物の涙だった。
「先生が——」
「じいちゃんがノートを二冊に分けたのは、あんたを締め出すためじゃない。あんたが暴走した時に、全部の情報が流出しないようにするためだ。一冊だけなら、学界に叩かれても致命傷にはならない。——じいちゃんは最後まで、あんたと一緒に宝を見つけるつもりだった。だが——あんたが先に動いてしまった」
石室が静まり返った。
黒田の肩が震えていた。五十五歳の男が、石室の中で泣いていた。二十年間の怒りと屈辱が、祖父の真意を知って——崩れた。
「先生——。私は——」
その時——地面が揺れた。
小さな振動。地震ではない。石室の壁から、低い音が聞こえた。水の音。
「水——」早川が壁に耳を当てた。「水が流れてる。壁の向こうに——」
石室の奥の壁の隙間から、水が滲み出し始めた。最初は糸のように細い流れ。だが——みるみる太くなった。
「地下水脈だ」直人が言った。「東照宮は山の中にある。地下に水脈が通っている。——扉を開けたことで、何かの封印が解けて水が——」
「まずい。水位が上がるっす!」
床に水が溜まり始めた。足首を浸すのに、一分とかからなかった。
「出るぞ!」
直人は家康の遺言書を懐に入れた。他の木箱は——持ち出せない。三十以上の箱を三人で運ぶのは不可能だ。
「宝が——」黒田が叫んだ。「宝が水に——」
「人が先だ! 箱は桐だ。すぐには浸水しない。後で排水して回収できる。——今は出ろ!」
黒田が動かなかった。木箱の前に立ち尽くしている。二十年間の夢が、目の前で水に沈もうとしている。
「黒田さん!」直人が黒田の腕を掴んだ。「全員死んだら誰が宝を守るんだ!」
黒田がはっとした。
水位は膝に達していた。壁からの流入が加速している。
直人が先頭で走った。真琴の手を引き、石の扉を抜け、通路を駆ける。早川が黒田の背中を押している。黒田の部下二人も、もはや主人に構わず自分たちの脱出に必死だった。
通路に水が追いかけてくる。足元で水が渦を巻く。
階段。登る。水が階段を這い上がってくる。
直人が最初に地上に出た。真琴を引き上げた。早川が飛び出してきた。黒田が——
黒田の足が石段で滑った。
水に足を取られ、後ろに倒れかけた。
直人は手を伸ばした。黒田の手首を掴んだ。
引き上げた。
黒田が地上に転がり出た。直後に、階段の入り口から水が噴き出した。地下の石室が完全に水没したのだ。
六人が——直人、真琴、早川、黒田、黒田の部下二人——地面に倒れ込んだ。月明かりの中で、荒い息を吐いている。
黒田が直人を見た。
「……助けてくれたのか」
「当たり前だ」
「私は——お前の仲間を人質に取った男だぞ」
「知ってる。——だがじいちゃんなら、あんたを見捨てなかった。じいちゃんの孫も同じだ」
黒田が顔を覆った。嗚咽が漏れた。
直人は懐から遺言書を取り出した。水は——染みていない。桐の箱に入っていた時間が長かったおかげで、紙が水を弾いている。修復士の手で確認する。損傷なし。
「これだけは持ち出せた」
真琴が直人の隣で、遺言書を見つめた。
「他の宝は——」
「水没した。だが石室の構造は頑丈だ。排水すれば回収できる。桐の箱は耐水性がある。短時間の浸水なら、中身は無事な可能性が高い」
「排水って——個人でできる規模じゃない」
「だから——国にやってもらう」
直人は遺言書を大事に抱えた。月光が和紙の表面を照らしている。四百年前の文字が、銀色に浮かんでいた。




