第十三話 眠り猫の目
レンズの完成を待つ間に、直人はもう一つの準備を進めた。
祖父のノートの二冊目に、日光に関する記述がある。断片的だが。
「二〇一三年。東照宮の彫刻群を再調査。陽明門の五百以上の彫刻のうち、暗号に関連するのは——眠り猫、三猿、想像の象。この三つが鍵」
眠り猫。東照宮の奥宮への入り口、坂下門の上に彫られた猫の彫刻。左甚五郎の作と伝わる。猫が眠っている姿——だが「本当に眠っているのか」は議論がある。前足を踏ん張っているように見え、「眠ったふりをして、裏のネズミ(敵)を見張っている」とも解釈される。
三猿。「見ざる、言わざる、聞かざる」。神厩舎の猿の彫刻。人生の教訓を表すとされる。
想像の象。上神庫の妻飾りに彫られた二頭の象。彫刻家が実物の象を見たことがなく、想像で彫ったとされる。耳の形や体の比率が実際の象とは異なる。
「眠り猫の目に注目。猫の目は——閉じているように見えるが、薄く開いている。瞳の位置が重要」
祖父のメモはそこで途切れている。
「瞳の位置——」
直人は東照宮で撮影した眠り猫の写真を拡大した。猫は牡丹の花に囲まれて、うたた寝をしている。目は——確かに完全には閉じていない。薄目を開けている。
その薄目の先に——何があるのか。猫が見ている方向。
「早川。眠り猫の視線の方向を、三次元的に計算できるか」
「写真から? 角度が分かれば。——猫の頭の向きと、目の開き方から視線ベクトルを推定する。やってみるっす」
早川がPCに向かった。眠り猫の写真を画像解析ソフトに取り込み、猫の頭部の三次元モデルを推定。視線の方向を矢印で表示。
「猫の視線は——坂下門をくぐった先、奥宮に向かう石段の——途中を指してるっす。石段の百二十三段目あたり」
「百二十三段目。——行って確認する必要がある」
レンズが完成した三日後。直人と早川と真琴は、再び日光に向かった。
今回は——夜だった。
閉門後の東照宮に入る。正規の手段ではない。だが時間がなかった。黒田も日光に向かっているはずだ。原本を手にした黒田が、直人より先に星霜蔵に辿り着く可能性がある。
東照宮の裏手、山側から境内に入った。杉林の中を抜け、石段の脇を通り、奥宮へ。
月明かりの中の東照宮は、昼間とは別の場所だった。極彩色の装飾は闇に沈み、彫刻の影だけが浮かんでいる。杉の巨木が風に揺れるたびに、月光が明滅する。
「怖い——」早川が小声で言った。
「静かにしろ。——石段を登る。百二十三段目だ」
三人は奥宮への石段を登った。直人が段数を数える。百十九、百二十、百二十一——
百二十三段目。
直人はLEDライトで石段を照らした。石段の蹴込み——垂直面——に、何かが刻まれている。
小さな記号。丸の中に——五角形。
「五角形。——五円玉だ」直人が呟いた。
「五円玉?」
「五円玉には五角形はないが——五の数字がある。そして五円玉は、日本の硬貨の中で唯一、アラビア数字がない。『五円』と漢字だけで書かれている」
早川が思い出したように声を上げた。
「あ——前に雑学で言ったやつ。五円玉ってアラビア数字ないんすよね。和数字だけ——」
「和数字。それが鍵だ。——奥宮の宝塔の台座に、鍵穴があった。そしてもう一つ、数字の入力が必要だとしたら——和数字で入力する仕組みがある」
「何の数字を入力するんすか」
「まだ分からない。宝塔に行けば分かるはずだ」
三人は石段を登り切り、奥宮に着いた。夜の奥宮は完全な闇だった。月光が杉の梢を通してわずかに届くだけ。宝塔の青銅の表面が、鈍い光を反射している。
玉垣を越えた。夜なら、誰もいない。
宝塔の台座に近づいた。直人がLEDライトを当てる。
正面の線刻——地図。そしてその下の穴。鍵穴。
穴の横に、もう一つの仕掛けがあった。昼間の写真では見えなかった——台座の石の一部が、回転式の円盤になっている。直径五センチ。円盤の表面に、漢数字が刻まれている。零から九まで。
「ダイヤル錠——」
「和数字の回転式ダイヤル。数字を合わせて入力する」
「何桁すか」
直人は台座をさらに調べた。ダイヤルは——三つあった。三桁の数字を入力する仕組み。
「三桁。——何の数字だ」
直人は考えた。三桁の数字。東照宮に関連する数字。
「早川。東照宮の創建年は」
「えーと、一六三六年。三代将軍家光の時——」
「三桁だ。六三六。——いや、和暦で言えば寛永十三年。一三。二桁。合わない」
「鷺宮さん」真琴が言った。「数字は建築ではなく、家康に関連するものでは。——家康の没年は元和二年。一六一六年。家康が亡くなったのは四月十七日。旧暦ですが」
「四一七。三桁」
「もう一つ。家康の享年は七十五。七五。——二桁」
「四一七を試す」
直人はダイヤルに手を伸ばした。最初のダイヤルを「四」に合わせる。二番目を「一」。三番目を——
手が止まった。
「待て。——和数字で入力する意味を考えろ。アラビア数字を使わないということは、日本独自の数の体系。日本の暦。日本の——」
「元号?」真琴が言った。「元和二年。元和の数字に変換すると——。いえ、元和はそのままでは数字にならない」
直人は台座の周囲をもう一度確認した。ダイヤルの上に——小さな文字が刻まれている。LEDライトで照らすと読める。
「『御遺訓ノ第一条ヲ数エヨ』」
「御遺訓——家康の遺訓だ」真琴の目が輝いた。「東照公御遺訓。『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず』——」
「それだ。第一条の文字数を数えろ」
真琴が暗唱した。
「『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし急ぐべからず』。句読点を除いて——」
真琴が指を折りながら数えた。
「二十六文字。二六。——二桁。三桁にならない」
「読み下し文じゃなく、原文で数えるんだ。漢文の原文は——」
「『人之一生如負重荷行遠路不可急』。十四文字」
「一四。まだ二桁——」
「鷺宮さん」早川が口を挟んだ。「二十六と十四、足すと四十。ダイヤルは三桁だから——零四零? いや——」
「違う。もっとシンプルに考えろ」直人は台座の文字をもう一度読んだ。「『第一条を数えよ』。第一条の中の、特定の文字を数えるのでは——」
「特定の文字?」
「漢数字だ。御遺訓の第一条の中に出てくる漢数字を、出現順に並べる」
真琴が原文を思い出した。
「『人之一生如負重荷行遠路不可急』——漢数字は『一』だけ。一つしかない」
「読み下し文では」
「『人の一生は重荷を——』。漢数字は『一』のみ」
「第一条だけでなく、遺訓全体の最初の三つの漢数字を——」
真琴が遺訓を暗唱し始めた。書陵部の学芸員は、主要な古典を暗記している。
「第一条『人之一生』——一。第二条『不自由を常と思えば不足なし』——数字なし。第三条に……いえ、遺訓の文中に漢数字が出てくる箇所を探します。——『一生』の一、次に数字が出るのは——」
真琴は少し考え込んだ。
「待ってください。東照公御遺訓は、条文の番号自体が漢数字です。第一条、第二条、第三条——。条文数は——」
「全部で何条ある」
「伝わっているのは——。正確な条文数は諸説ありますが、一般的には……」
「いや」直人が言った。「ここで問われているのは、暗号を仕込んだ人間が知っていた条文数だ。幕末の人間が。——宮内庁に伝わる版には何条ある」
「書陵部所蔵の写本では——三百六十二条です」
「三六二。三桁」
直人はダイヤルに手をかけた。最初を「三」、二番目を「六」、三番目を「二」。
三つのダイヤルが揃った。
カチッ——と、台座の石の一部が沈んだ。
同時に、鍵穴の周囲の石がスライドし、穴が大きくなった。凸レンズがぴったり入る大きさに。
「レンズを」
直人は新しく作った凸レンズを穴に差し込んだ。レンズが石の穴にはまった。ぴったりだ。
何も起きない——かと思った瞬間。
月光がレンズを通った。
凸レンズが月光を集め、一本の光線として台座の内部に導いた。光線は台座の中を通り——台座の裏側に、小さな光の点を投影した。
「裏側に光が——」
直人は台座の裏手に回った。裏面の石に、光の点がある。その点の位置に——もう一つのスライド機構。
光の点を押した。
石が動いた。台座の裏面の石板が横にスライドし——下に向かう階段が現れた。
「階段——」早川が絶句した。
宝塔の台座の下に、地下への階段がある。暗い。LEDライトを向けると、石段が闇の中に続いている。
「星霜蔵だ」直人が言った。
三人は顔を見合わせた。月明かりの中で。四百年の暗号の、最後の扉が開いた。
「行こう」
直人が先頭で階段を下りた。真琴が続き、早川が最後。LEDライトが石壁を照らす。空気が変わった。地上の湿った杉の香りから、乾いた石の匂いに。
階段は二十段ほど。下りきると——通路があった。人が一人通れる幅。天井は低い。直人は頭を少しかがめて進んだ。
通路の先に——扉があった。石の扉。取っ手はない。だが扉の中央に、菊紋が彫られていた。十六枚の花弁。完全な菊紋。
「ここにも菊紋——」
「これまでの菊紋は、すべて不完全だった。二枚足りない、二枚だけ深い。——だがこの紋は完全だ。十六枚。ここが最後の扉だ」
直人は菊紋に手を当てた。紋全体を——押した。
石の扉が、ゆっくりと内側に開いた。
その向こうに——




