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星霜の蔵  作者: nose360
13/15

第十三話 眠り猫の目  

レンズの完成を待つ間に、直人はもう一つの準備を進めた。

 祖父のノートの二冊目に、日光に関する記述がある。断片的だが。

「二〇一三年。東照宮の彫刻群を再調査。陽明門の五百以上の彫刻のうち、暗号に関連するのは——眠り猫、三猿、想像の象。この三つが鍵」

 眠り猫。東照宮の奥宮への入り口、坂下門の上に彫られた猫の彫刻。左甚五郎の作と伝わる。猫が眠っている姿——だが「本当に眠っているのか」は議論がある。前足を踏ん張っているように見え、「眠ったふりをして、裏のネズミ(敵)を見張っている」とも解釈される。

 三猿。「見ざる、言わざる、聞かざる」。神厩舎の猿の彫刻。人生の教訓を表すとされる。

 想像の象。上神庫の妻飾りに彫られた二頭の象。彫刻家が実物の象を見たことがなく、想像で彫ったとされる。耳の形や体の比率が実際の象とは異なる。

「眠り猫の目に注目。猫の目は——閉じているように見えるが、薄く開いている。瞳の位置が重要」

 祖父のメモはそこで途切れている。

「瞳の位置——」

 直人は東照宮で撮影した眠り猫の写真を拡大した。猫は牡丹の花に囲まれて、うたた寝をしている。目は——確かに完全には閉じていない。薄目を開けている。

 その薄目の先に——何があるのか。猫が見ている方向。

「早川。眠り猫の視線の方向を、三次元的に計算できるか」

「写真から? 角度が分かれば。——猫の頭の向きと、目の開き方から視線ベクトルを推定する。やってみるっす」

 早川がPCに向かった。眠り猫の写真を画像解析ソフトに取り込み、猫の頭部の三次元モデルを推定。視線の方向を矢印で表示。

「猫の視線は——坂下門をくぐった先、奥宮に向かう石段の——途中を指してるっす。石段の百二十三段目あたり」

「百二十三段目。——行って確認する必要がある」


 レンズが完成した三日後。直人と早川と真琴は、再び日光に向かった。

 今回は——夜だった。

 閉門後の東照宮に入る。正規の手段ではない。だが時間がなかった。黒田も日光に向かっているはずだ。原本を手にした黒田が、直人より先に星霜蔵に辿り着く可能性がある。

 東照宮の裏手、山側から境内に入った。杉林の中を抜け、石段の脇を通り、奥宮へ。

 月明かりの中の東照宮は、昼間とは別の場所だった。極彩色の装飾は闇に沈み、彫刻の影だけが浮かんでいる。杉の巨木が風に揺れるたびに、月光が明滅する。

「怖い——」早川が小声で言った。

「静かにしろ。——石段を登る。百二十三段目だ」

 三人は奥宮への石段を登った。直人が段数を数える。百十九、百二十、百二十一——

 百二十三段目。

 直人はLEDライトで石段を照らした。石段の蹴込み——垂直面——に、何かが刻まれている。

 小さな記号。丸の中に——五角形。

「五角形。——五円玉だ」直人が呟いた。

「五円玉?」

「五円玉には五角形はないが——五の数字がある。そして五円玉は、日本の硬貨の中で唯一、アラビア数字がない。『五円』と漢字だけで書かれている」

 早川が思い出したように声を上げた。

「あ——前に雑学で言ったやつ。五円玉ってアラビア数字ないんすよね。和数字だけ——」

「和数字。それが鍵だ。——奥宮の宝塔の台座に、鍵穴があった。そしてもう一つ、数字の入力が必要だとしたら——和数字で入力する仕組みがある」

「何の数字を入力するんすか」

「まだ分からない。宝塔に行けば分かるはずだ」

 三人は石段を登り切り、奥宮に着いた。夜の奥宮は完全な闇だった。月光が杉の梢を通してわずかに届くだけ。宝塔の青銅の表面が、鈍い光を反射している。

 玉垣を越えた。夜なら、誰もいない。

 宝塔の台座に近づいた。直人がLEDライトを当てる。

 正面の線刻——地図。そしてその下の穴。鍵穴。

 穴の横に、もう一つの仕掛けがあった。昼間の写真では見えなかった——台座の石の一部が、回転式の円盤になっている。直径五センチ。円盤の表面に、漢数字が刻まれている。零から九まで。

「ダイヤル錠——」

「和数字の回転式ダイヤル。数字を合わせて入力する」

「何桁すか」

 直人は台座をさらに調べた。ダイヤルは——三つあった。三桁の数字を入力する仕組み。

「三桁。——何の数字だ」

 直人は考えた。三桁の数字。東照宮に関連する数字。

「早川。東照宮の創建年は」

「えーと、一六三六年。三代将軍家光の時——」

「三桁だ。六三六。——いや、和暦で言えば寛永十三年。一三。二桁。合わない」

「鷺宮さん」真琴が言った。「数字は建築ではなく、家康に関連するものでは。——家康の没年は元和二年。一六一六年。家康が亡くなったのは四月十七日。旧暦ですが」

「四一七。三桁」

「もう一つ。家康の享年は七十五。七五。——二桁」

「四一七を試す」

 直人はダイヤルに手を伸ばした。最初のダイヤルを「四」に合わせる。二番目を「一」。三番目を——

 手が止まった。

「待て。——和数字で入力する意味を考えろ。アラビア数字を使わないということは、日本独自の数の体系。日本の暦。日本の——」

「元号?」真琴が言った。「元和二年。元和の数字に変換すると——。いえ、元和はそのままでは数字にならない」

 直人は台座の周囲をもう一度確認した。ダイヤルの上に——小さな文字が刻まれている。LEDライトで照らすと読める。

「『御遺訓ノ第一条ヲ数エヨ』」

「御遺訓——家康の遺訓だ」真琴の目が輝いた。「東照公御遺訓。『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず』——」

「それだ。第一条の文字数を数えろ」

 真琴が暗唱した。

「『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし急ぐべからず』。句読点を除いて——」

 真琴が指を折りながら数えた。

「二十六文字。二六。——二桁。三桁にならない」

「読み下し文じゃなく、原文で数えるんだ。漢文の原文は——」

「『人之一生如負重荷行遠路不可急』。十四文字」

「一四。まだ二桁——」

「鷺宮さん」早川が口を挟んだ。「二十六と十四、足すと四十。ダイヤルは三桁だから——零四零? いや——」

「違う。もっとシンプルに考えろ」直人は台座の文字をもう一度読んだ。「『第一条を数えよ』。第一条の中の、特定の文字を数えるのでは——」

「特定の文字?」

「漢数字だ。御遺訓の第一条の中に出てくる漢数字を、出現順に並べる」

 真琴が原文を思い出した。

「『人之一生如負重荷行遠路不可急』——漢数字は『一』だけ。一つしかない」

「読み下し文では」

「『人の一生は重荷を——』。漢数字は『一』のみ」

「第一条だけでなく、遺訓全体の最初の三つの漢数字を——」

 真琴が遺訓を暗唱し始めた。書陵部の学芸員は、主要な古典を暗記している。

「第一条『人之一生』——一。第二条『不自由を常と思えば不足なし』——数字なし。第三条に……いえ、遺訓の文中に漢数字が出てくる箇所を探します。——『一生』の一、次に数字が出るのは——」

 真琴は少し考え込んだ。

「待ってください。東照公御遺訓は、条文の番号自体が漢数字です。第一条、第二条、第三条——。条文数は——」

「全部で何条ある」

「伝わっているのは——。正確な条文数は諸説ありますが、一般的には……」

「いや」直人が言った。「ここで問われているのは、暗号を仕込んだ人間が知っていた条文数だ。幕末の人間が。——宮内庁に伝わる版には何条ある」

「書陵部所蔵の写本では——三百六十二条です」

「三六二。三桁」

 直人はダイヤルに手をかけた。最初を「三」、二番目を「六」、三番目を「二」。

 三つのダイヤルが揃った。

 カチッ——と、台座の石の一部が沈んだ。

 同時に、鍵穴の周囲の石がスライドし、穴が大きくなった。凸レンズがぴったり入る大きさに。

「レンズを」

 直人は新しく作った凸レンズを穴に差し込んだ。レンズが石の穴にはまった。ぴったりだ。

 何も起きない——かと思った瞬間。

 月光がレンズを通った。

 凸レンズが月光を集め、一本の光線として台座の内部に導いた。光線は台座の中を通り——台座の裏側に、小さな光の点を投影した。

「裏側に光が——」

 直人は台座の裏手に回った。裏面の石に、光の点がある。その点の位置に——もう一つのスライド機構。

 光の点を押した。

 石が動いた。台座の裏面の石板が横にスライドし——下に向かう階段が現れた。

「階段——」早川が絶句した。

 宝塔の台座の下に、地下への階段がある。暗い。LEDライトを向けると、石段が闇の中に続いている。

「星霜蔵だ」直人が言った。

 三人は顔を見合わせた。月明かりの中で。四百年の暗号の、最後の扉が開いた。

「行こう」

 直人が先頭で階段を下りた。真琴が続き、早川が最後。LEDライトが石壁を照らす。空気が変わった。地上の湿った杉の香りから、乾いた石の匂いに。

 階段は二十段ほど。下りきると——通路があった。人が一人通れる幅。天井は低い。直人は頭を少しかがめて進んだ。

 通路の先に——扉があった。石の扉。取っ手はない。だが扉の中央に、菊紋が彫られていた。十六枚の花弁。完全な菊紋。

「ここにも菊紋——」

「これまでの菊紋は、すべて不完全だった。二枚足りない、二枚だけ深い。——だがこの紋は完全だ。十六枚。ここが最後の扉だ」

 直人は菊紋に手を当てた。紋全体を——押した。

 石の扉が、ゆっくりと内側に開いた。

 その向こうに——

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