第十一話 取引
真琴が京都に発った翌日。
直人は鎌倉大仏を再訪した。二度目の胎内。今回は一人だ。
秋分は過ぎたが、直人の目的は菊紋の周辺調査だった。紋章の裏側——壁の反対面——に、何か隠されている可能性。
胎内に入り、壁に手を当てた。菊紋があった場所の裏側を、外側から確認する。大仏の背面。二つの窓の間。
外から見ると、大仏の背中は滑らかな青銅の曲面だ。だが——直人の修復士の指は、微かな段差を検出した。壁の厚みが、一箇所だけわずかに異なる。
内部に空洞がある。
だが外から開ける方法が分からない。御料車のように「押す」ギミックか、姫路のように「スライドする」ギミックか。
直人は大仏の外周を歩き、あらゆる角度から背面を観察した。観光客の目もある。不審に思われない程度に、自然な動きで。
背面の窓の枠に、手を触れた。窓枠は青銅の板で補強されている。明治時代の修復痕。その補強板の一枚が——他より少しだけ出っ張っている。
押してみた。動かない。引いてみた。動かない。回してみた——
カチッ。
補強板が時計回りに十五度回転した。その瞬間、大仏の背面の壁の一部が——一センチほど前に迫り出した。
小さな隙間。指を入れると——中に平たい金属板。
二枚目の地図断片。
直人は金属板を取り出し、すぐに懐にしまった。補強板を元の位置に戻す。
鎌倉の地図断片。手持ちは二枚になった。姫路の一枚と合わせて、五枚中二枚。
その日の夜。早川から連絡が来た。
「鷺宮さん。真琴さん、京都に着いたっす。排水工事に立ち会ってる。——でもちょっとマズいことが」
「何だ」
「真琴さんの周りに、人がいるんすよ。工事業者じゃない人。二人。——あのグレーのジャケットの男と、もう一人」
直人の胃が縮んだ。
「真琴さんに伝えろ。すぐに離れるように」
「もう遅い。——工事現場から離れようとした真琴さんを、男二人が車に連れ込んだ」
「——なんだと」
「俺、見てたんすけど——止めようがなかった。車はすぐに走り去って——ナンバーは控えたっす。京都ナンバー。——鷺宮さん、警察に——」
直人のスマートフォンが振動した。非通知。
「早川。切るな。別の電話が来る。——聞いていてくれ」
直人は非通知に出た。
「鷺宮さん」黒田の声。「お察しの通りです」
「真琴さんをどうした」
「安全ですよ。怪我はさせていない。——ただし、少し話し合いが必要なのです」
直人の握力がスマートフォンを軋ませた。
「何が望みだ」
「簡単です。あなたが持っている地図の断片と、御料車のレンズを渡していただきたい。そして、先生のノートの原本も。——見返りに、九条さんをお返しします。そして私が持っている先生のノートの後半も、お見せしますよ。取引です」
「取引——」
「対等な取引です。あなたの情報と、九条さんの安全。——鷺宮さん、冷静に考えてください。宝は一人では見つけられない。私にもあなたにも、情報が足りない。合わせれば全体像が見える。私は協力を提案しているだけです。方法が——少し荒っぽくなっただけで」
直人は歯を食いしばった。
怒りで頭が沸騰しそうだった。だが——冷静にならなければ。修復士は冷静さを失ったら、作品を壊す。
「いつ、どこで」
「明後日。東京。場所はこちらで指定します。——一人で来てください」
「分かった」
電話が切れた。
直人は早川の電話に戻った。
「聞いてたか」
「聞いてたっす。——鷺宮さん、渡すんすか。全部」
「渡す。——ただし」
「ただし?」
「早川。前に言っただろう。バックアップは基本だと」
「——あ。そうっす。全部コピー取ってある。金属板の地図は高解像度スキャン済み。ノートも全ページ撮影済み。外付けHDDに」
「それがある限り、原本を渡しても情報は失わない。——レンズだけは複製できないが」
「レンズの光学特性も計測してあるっす。曲率半径と焦点距離。同じスペックのレンズなら、作れる」
直人は息を吐いた。早川が——あの軽い男が、最初から全てのデータをバックアップしていた。
「早川」
「何すか」
「助かった」
「基本っすから」早川の声が、いつもの軽さの奥で、かすかに震えていた。「——真琴さん、大丈夫すかね」
「大丈夫だ。黒田は学者だ。暴力は手段として好まない。真琴さんを傷つけるメリットがない」
「でも——」
「取り戻す。必ず」
明後日。
黒田が指定した場所は、品川の貸し会議室だった。ビルの五階。直人は一人で入った。
会議室には黒田と、男が二人。一人はグレーのジャケットの男——やはり鎌倉で見た人物だった。もう一人は体格のいい若い男。黒田の「実行部隊」だ。
そして——真琴が椅子に座っていた。手足は拘束されていない。だが顔色が悪い。二日間、どこかに閉じ込められていたのだろう。
「真琴さん」
「鷺宮さん——。すみません。私——」
「謝らなくていい。——黒田さん。彼女を先に帰してくれ」
黒田が首を振った。
「品物を確認してからです。——持ってきましたか」
直人はカバンから、祖父のノート二冊、金属板の地図断片二枚、真鍮の凸レンズ、巻物の断片、旧一円札を取り出し、テーブルの上に並べた。
黒田の目が光った。研究者の目。二十年間求め続けたものが、目の前にある。
黒田がノートを手に取り、ページを繰った。読むのが速い。金属板を重ね合わせ、地図の断片が接合することを確認した。凸レンズを光に透かし、巻物の文字を読んだ。
「……素晴らしい。先生は——ここまで辿り着いていたのですか」
「それはすべてだ。——真琴さんを返してくれ」
「もちろん。約束通り」黒田が手の者に頷いた。グレーのジャケットの男が、真琴の肘を持って立たせた。
真琴が直人の方に歩いてきた。直人は真琴の腕を取り、自分の後ろに庇った。
「怪我は」
「ありません。——でも鷺宮さん、全部渡して——」
「いい。行くぞ」
直人は真琴を連れて会議室を出ようとした。
「鷺宮さん」黒田が呼び止めた。「一つだけ。——星霜蔵の本体は日光です。先生のノートの後半に書いてある。私がずっと探していた情報が、あなたのノートの中にあった。そしてあなたが探していた情報が、私のノートの中にあった」
直人は振り返らなかった。
「先生は——本当に賢い人でした。ノートを分けたのは、一人の人間がすべてを知ることの危険を——」
「じいちゃんの話は、あんたにする気はない」
直人は真琴の手を引いて、会議室を出た。エレベーターで一階に下り、ビルの外に出た。
品川の雑踏の中で、真琴の肩が震えていた。
「ごめんなさい——私のせいで——全部——」
「全部じゃない。データのバックアップがある。早川が全部コピーしてある。地図の断片のスキャン。ノートの写真。巻物の画像。——原本は渡したが、情報は手元にある」
真琴が目を見開いた。
「バック——」
「早川の口癖だ。バックアップは基本だと。——レンズだけは替えが効かないが、光学スペックは計測済みだ。同じ性能のレンズを作ればいい」
真琴の目から涙がこぼれた。安堵と、悔しさと、何か別の感情が混ざった涙だった。
直人は真琴の肩に手を置いた。
「泣くな。——まだ終わってない。黒田が言った。本蔵は日光だと。ノートの後半に書いてあると」
「日光——」
「早川がノートの全ページを撮影している。黒田のノートは撮影していないが、黒田が日光だと言った以上——日光東照宮だ。俺たちも行く。黒田より先に」
「でも黒田さんはもう——原本を持って——」
「原本を持っていても、現場で動けるかどうかは別だ。黒田は文献の人間で、フィールドの人間じゃない。御料車のギミックも、姫路の石垣も——黒田には開けられなかった。日光のギミックも同じだ」
直人は真琴の目を見つめた。
「俺たちには手がある。修復士の手と、学芸員の知識と、エンジニアのバックアップが。——黒田にはそれがない。だから人質を取るような真似をするんだ」
真琴が涙を拭いた。目の奥に、火が灯った。
「——行きましょう。日光に」




