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星霜の蔵  作者: nose360
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第十話 紫宸殿  

京都御所は、二〇一六年から通年一般公開されている。事前予約なしで入れる。ただし——公開時間は午前九時から午後五時。冬季は四時まで。

 直人が必要としているのは、日没の時間帯だった。

 祖父のノートの二冊目に、京都に関する断片的な記述がある。

「京都御所。紫宸殿。高御座。——日没時の影の角度を計測する必要あり。秋分または春分の日没が理想的」

 秋分の日没。太陽が真西に沈む日。日没の光が紫宸殿に差し込むと、高御座の影がどこかを指す——祖父はそう考えていた。

 だが秋分はもう過ぎた。次の春分は来年の三月。半年も待てない。

「秋分でなくても、日没の方角が分かっていれば影の計算はできる」早川が言った。「太陽の方位角と高度から、任意の日付での影の方向を算出できるっす。——問題は」

「閉館後だ」

「そうっす。日没時に御所の中にいるには——」

「残る方法がある。閉館前に入って、どこかに隠れて、閉館後に出てくる」

 真琴が腕を組んだ。

「それは不法侵入です」

「分かっている」

「京都御所は宮内庁の管理下です。警備は厳重です。赤外線センサー、監視カメラ、巡回の警備員。——見つかれば逮捕されます」

「分かっている」

「鷺宮さん」真琴の声が硬くなった。書陵部で門前払いをした時のトーンに戻っている。「私は宮内庁の人間です。宮内庁の管理する施設への不法侵入を、見て見ぬふりはできません」

 直人は真琴を見つめた。真琴の目は真剣だった。怒りではなく——葛藤だ。協力したい気持ちと、規則を守るべき立場との間で引き裂かれている。

「真琴さん。ここから先は、俺と早川で行く。あなたは来なくていい」

「そういう問題ではありません。——来なくていいではなく、行くべきではないと言っているんです。あなたが」

「他に方法がない。日没の影を確認するには、閉館後に紫宸殿の前にいる必要がある」

「方法はあります。——宮内庁京都事務所に、学術調査の申請を出す。私の名義で。書陵部の学芸員として、紫宸殿の建築調査を名目に、閉館後の立ち入り許可を取る」

 直人は言葉を失った。

「それ——通るのか」

「通るかどうかは分かりません。でも不法侵入よりは、遥かにまともな方法です」

 真琴はスマートフォンを取り出し、京都事務所の番号を検索し始めた。

「——待ってくれ、真琴さん。それをやると、あなたの立場が危うくなる。学術調査の名目で、実際には別のことをしていたと分かったら——」

「分かっています」真琴は直人を見つめ返した。「でも——あなたが逮捕されるよりはましです」

 その言葉の温度に、直人は何も返せなかった。


 真琴の申請は、三日で通った。

 名目は「紫宸殿の木工装飾に関する保存状態調査」。書陵部の学芸員と、外部協力者(文化財修復士)の二名が、閉館後の紫宸殿周辺に立ち入ることを許可された。

 ただし条件がある。宮内庁京都事務所の職員一名が同行すること。立ち入り時間は日没前後の一時間のみ。

「同行の職員がいるなら、自由に動けない」

「紫宸殿の前庭までは行けます。高御座は建物の中ですが、前庭から見ることはできる。——影の角度を確認するだけなら、前庭で十分では」

 直人は考えた。高御座の影が前庭のどこかを指す。その場所を特定できれば、あとは別の機会に確認すればいい。

「……分かった。それで行こう。——早川は」

「早川さんは申請に入っていません。外で待機してもらうしかありません」

「了解。早川には外から計測データをサポートしてもらう」


 十月の京都。紅葉にはまだ早いが、空気は澄んでいた。

 午後四時。閉館後の京都御所。一般の観光客が去った後の御所は、驚くほど静かだった。砂利を踏む音が、広大な敷地に響く。

 宮内庁の職員——四十代の男性、山本と名乗った——が同行した。穏やかな人物だが、二人の動きをしっかり見ている。

 紫宸殿の前に立った。

 白砂の前庭。正面に紫宸殿の威容。入母屋造の屋根。朱塗りの柱。そして前庭の左に「左近の桜」、右に「右近の橘」。

 紫宸殿の内部に、高御座が見える。天皇の玉座。八角形の屋蓋を持つ、黒漆塗りの荘厳な構造物。即位の礼で使用される、日本で最も格式の高い座。

 太陽が西に傾いている。日没まであと三十分。

「鷺宮さん。ここから観察します。私は山本さんに紫宸殿の木工装飾について質問しますので、その間に——」

 真琴が山本職員の方に向かった。装飾の状態について、学芸員らしい専門的な質問を始めた。山本職員が説明に集中する。

 その間に、直人は前庭の端に立ち、紫宸殿の影を観察した。

 日没が近づくにつれ、太陽の角度が低くなり、紫宸殿の影が前庭に長く伸びていく。高御座は建物の内部にあるから、直接の影は落ちない。だが——紫宸殿の屋根の影が、前庭の特定の位置を指す。

 直人はスマートフォンで太陽の方位角を確認した。早川が外からリアルタイムで計算データを送ってくれている。

「今日の日没方位角:263度。秋分の場合は270度(真西)。差は7度。影の先端の位置を7度分補正すれば、秋分の日没時の影の位置が分かるっす」

 直人は紫宸殿の屋根の棟の先端の影が落ちる位置を記録した。そして早川の補正値を適用すると——

 秋分の日没時、屋根の棟の影は——前庭の「右近の橘」の根元を指す。

 橘の根元。直人は橘の木に近づいた。樹齢は分からないが、相当古い木だ。幹が太く、根が地面に張り出している。

 根元の地面は白砂が敷き詰められている。だが——根の一つが、砂の下の何かに引っかかっている。根が石の上を這うように伸びている。

 石。砂に半分埋もれた、平らな石。根がその上を覆っている。

 直人はしゃがんで、石の端を指で探った。砂の下に、石の輪郭がある。人工的に加工された、正方形に近い石。三十センチ四方。

「鷺宮さん、何か見つかりましたか」山本職員が声をかけた。

「いえ——橘の根の状態を確認していました。修復士として、樹木の根が石造物に与える影響を」

「ああ、確かに根が張り出していますね。庭園の管理上、気になるところです」

 直人は立ち上がった。石の位置を記憶に刻んだ。右近の橘の根元。砂の下。三十センチ四方の石。

 この石の下に、何かがある。

 だが今は掘れない。職員が見ている。そして——石を掘り出すには、時間と道具が必要だ。

「ありがとうございました。調査は以上です」

 真琴と直人は、山本職員に礼を言って御所を出た。蛤御門をくぐり、御苑の玉砂利の道を歩く。

「見つけましたか」真琴が小声で聞いた。

「場所は特定した。右近の橘の根元の下に、石がある。だが今日は掘れない」

「もう一度入る必要がありますね。——今度は、職員の目を欺いて」

「真琴さん。さっき、不法侵入は——」

「私が言ったことは撤回しません。正規の手続きを踏むべきです。——ですが」真琴が足を止めた。「今日の調査で分かったことがあります」

「何だ」

「山本さんに聞いたのですが——来月、紫宸殿の前庭の排水工事があるそうです。白砂を一時的に除去して、暗渠の点検をする。その際、橘の根元の石も調査対象になる可能性があると」

「排水工事——」

「工事の期間中は、前庭が掘り返される。その時なら——石を確認する機会がある。工事業者に紛れるか、あるいは工事の監督として入るか」

「真琴さんが監督に入れるのか」

「書陵部の管轄ではありません。京都事務所の管轄です。——でも、書陵部から『文化財保護の観点で工事に立ち会いたい』と申請すれば、通る可能性はあります」

 直人は真琴を見つめた。規則の中で、規則を最大限に活用して、目的を達成しようとしている。正面突破ではなく、正規のルートで抜け道を作る。

「あなたは——すごい人だ」

「普通です。書類と手続きが得意なだけです」

 真琴の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが——計画は、思い通りにはいかなかった。

 京都から東京に戻った翌日。直人のスマートフォンに、非通知の着信。

 黒田だった。

「鷺宮さん。京都に行かれたそうですね」

「……何の話ですか」

「御所の前庭で、何かを見つけましたか。右近の橘の根元あたりで」

 直人の血が凍った。黒田は——京都での調査を、正確に把握している。

「鷺宮さん。そろそろ率直に話しませんか。あなたと私は、同じものを追っている。競争を続けても、お互いに消耗するだけだ」

「率直に話すなら、まず一つ答えてくれ。俺を尾行しているのは誰だ」

 電話の向こうで、黒田が短く笑った。

「尾行とは人聞きが悪い。——私の研究員です。あなたの安全を見守っていただけですよ」

「安全を見守る? 姫路で追いかけてきたのも見守りか」

「あれは——行き違いでした。研究員が独断で動いてしまった。私の指示ではありません」

 嘘か本当か、判断がつかない。だが黒田の次の言葉で、状況は一変した。

「鷺宮さん。九条真琴さんという方をご存知ですよね」

 直人の手が、スマートフォンを握り締めた。

「彼女に何の用だ」

「用はありません。ただ——彼女が宮内庁の人間としてあなたに協力していることは、宮内庁の上層部が知ったら問題になるでしょうね。学術調査の名目で、実際には埋蔵金の調査をしている。懲戒処分の対象です」

「脅しか」

「脅しではありません。忠告です。——鷺宮さん。協力しましょう。あなたの手持ちの情報と、私の情報を合わせれば、効率的に進められる。九条さんを巻き込む必要もなくなる」

 直人は電話を切った。

 手が震えていた。怒りと——恐怖。黒田は真琴の存在を知っている。そして真琴を盾にして、直人を動かそうとしている。

 すぐに真琴に電話した。

「真琴さん。黒田から連絡があった。あなたのことを知っている。宮内庁に報告すると——」

「……そうですか」真琴の声は、予想外に落ち着いていた。「覚悟はしていました」

「覚悟?」

「黒田さんが私の存在に気づくのは、時間の問題でした。書陵部の閲覧記録を見れば、私があなたと同じ文書を閲覧していることは分かります。——でも、だからといって引き下がるつもりはありません」

「だが——懲戒処分に——」

「なるかもしれません。——でも、鷺宮さん。お祖父様は、学界から追放されても研究を続けました。私が懲戒処分を恐れて手を引いたら、お祖父様に顔向けできません」

 直人は言葉を失った。

「ただし」真琴の声が少し変わった。「京都の排水工事の件は、私一人で対応します。あなたは東京にいてください。黒田さんの注意を分散させる必要があります」

「一人で? 危険だ」

「危険なのはあなたも同じです。——鷺宮さん、一つだけ約束してください」

「何だ」

「何があっても、最後まで諦めないでください。お祖父様の研究を——最後まで」

「——約束する」

 電話が切れた。

 直人は窓の外を見つめた。東京の夜空。

 真琴が京都で一人で動く。黒田の監視下で。危険だ。だが真琴の判断は正しい。直人と真琴が別々に動けば、黒田は両方を同時に監視できない。

 直人は早川に連絡した。

「早川。真琴さんが一人で京都に行く。——見守ってくれないか」

「見守る? 俺が京都に?」

「頼む。直接接触はしなくていい。ただ、何かあった時に——」

「了解っす。——鷺宮さんは?」

「俺は東京にいる。黒田の注意を引きつけておく。——そして、鎌倉と日光の手がかりを追う」

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