第一話 額縁の裏
電話が鳴ったのは、修復台の上で江戸時代の掛け軸と向き合っている最中だった。
鷺宮直人は手袋を嵌めたまま、振動するスマートフォンを横目で見た。画面に「父」の二文字。この番号が光ることは、年に二回あるかないかだ。正月と、盆。今は九月の半ば。季節外れの着信に、嫌な予感がした。
ヘラを置き、手袋を外してから電話に出た。
「もしもし」
「直人か。——じいちゃんが死んだ」
父の声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、本当に平坦なのだ。実の父親の死を報告する声としては、不自然なほどに。
「いつ」
「今朝。老人ホームから連絡があった。心不全だそうだ。昨晩は普通に夕飯を食べて、今朝、起きてこないので職員が見に行ったら——」
「苦しんだのか」
「分からん。顔は穏やかだったらしい。——葬儀は明後日だ。場所は練馬の斎場。来るなら来い」
来るなら来い。息子に対する言い方ではないが、鷺宮家はもうずっとこんな調子だった。
直人が修復士になると言い出したとき、父は「まともな仕事に就け」と反対した。祖父だけが「いい腕だ。続けろ」と背中を押した。父と祖父の間にあった溝は、直人の進路を巡ってさらに深くなった。
「行く。——じいちゃんの遺品は」
「まだ何も触ってない。老人ホームの部屋にそのまま残ってる」
「俺が片付ける」
「好きにしろ」
電話が切れた。
直人はスマートフォンを修復台の端に置いた。画面が暗くなるまでの数秒、父の名前が光っている。やがて消えた。
修復台の上の掛け軸を見下ろした。十八世紀の山水画。絹本に墨。右下に虫食いの穴がある。この穴を塞ぐのが、今日の仕事だった。
穴は小さい。直径三ミリほど。だがこの三ミリの穴を放置すれば、絹の繊維がそこから裂け、十年後には掌ほどの穴になる。修復とはそういう仕事だ。小さな綻びを、大きな崩壊になる前に止める。
直人は手袋を嵌め直し、ヘラを手に取った。
祖父が死んだ。その事実を、まだ受け止めきれていない。受け止める前に、まず手を動かす。修復士の習性だ。手が動いている間は、頭が余計なことを考えずに済む。
三ミリの穴に、極薄の楮紙の切片を当てた。糊は正麩糊。配合は師匠の師匠、つまり祖父の世代から受け継がれたものだ。
祖父。鷺宮清一郎。享年八十二。元宮内庁書陵部の修復士。直人に修復の手ほどきをしてくれた人。歴史の面白さを教えてくれた人。城の石垣の前で何時間でも立ち止まり、石の積み方を嬉しそうに解説してくれた人。
そして——晩年、「徳川の蔵を見つけた」と言い出して、周囲から狂人扱いされた人。
宮内庁を自ら辞め、年金を注ぎ込んで全国を歩き回り、学界に論文を送っては門前払いされ、最後は息子にすら見放されて老人ホームに入った。
直人だけが、最後まで祖父と連絡を取っていた。月に一度、老人ホームを訪ねた。祖父は直人が来るといつも嬉しそうに笑い、歴史の話をした。徳川の埋蔵金。慶応四年の江戸城無血開城。最後の将軍・徳川慶喜の側近たちが、二百六十五年分の至宝を新政府に渡すまいと極秘裏に隠したという伝説。
正直、半信半疑だった。祖父の話は面白かったが、証拠がなかった。具体的な場所も、物証も、何もない。祖父は「証拠はある。だがまだ見せる時期ではない」と言うばかりだった。
最後に会ったのは、八月の終わり。祖父は珍しく真剣な顔で、直人の手を握った。骨と皮ばかりの手。だが握力は、修復士の手だった。道具を握り続けた手は、老いても衰えない。
「直人。じいちゃんの部屋に額縁がある。富士山の絵が入った額縁だ。——あの裏を見ろ」
「裏?」
「じいちゃんが見つけたものは——本物だった。あの裏に、入り口がある」
入り口。何の入り口か、聞き返す前に祖父は咳き込み、看護師が飛んできて、会話は途切れた。
それが最後だった。
糊が乾いた。楮紙の切片が掛け軸の絹に馴染み、穴が消えている。元の絹と見分けがつかないほど、完璧に。
修復は得意だ。壊れたものを直すのは、子供の頃から好きだった。だが直人が修復できるのは、手に触れられるものだけだ。父と祖父の関係は、直人の手では修復できなかった。
道具を片付けた。池袋のシェアオフィスの狭い机。修復台と道具と、壁に貼った修復士の資格証。それだけの部屋だ。フリーランスの文化財修復士として独立して三年。腕には自信がある。だが営業が下手で、仕事は途切れがちだ。
隣の席で、イヤホンをしたまま画面を睨んでいる男がいる。早川雅彦。ITエンジニア。二ヶ月前からこのシェアオフィスに入った隣人。直人より四つ下の二十六歳。やたらと話しかけてくるのが、煩わしくもあり、少しだけ有り難くもあった。
早川がこちらを見た。イヤホンを片耳外す。
「鷺宮さん、顔色悪いっすよ」
「祖父が死んだ」
「え——マジすか。あの、城の石垣が好きなおじいちゃん?」
直人は何度か、祖父の話をしたことがあった。城の石垣の話と、埋蔵金の話。早川は「映画みたいっすね」と笑っていた。
「明後日、葬儀だ。しばらく席を外す」
「あ、はい。——ご愁傷様です。何か手伝えることあったら言ってください」
直人は荷物をまとめてシェアオフィスを出た。九月の池袋。ビルの谷間を抜ける風が、まだ夏の残り香を運んでいる。
葬儀は簡素だった。
参列者は直人と両親の三人。それに、祖父が通っていた碁会所の老人が二人。合わせて五人。
焼香の間、父は一度も涙を見せなかった。母だけが、ハンカチで目元を押さえていた。
読経の間、直人は棺の中の祖父の顔を見つめていた。安らかだった。眉間の皺が消えて、十歳は若く見える。何かを探し続けた人が、探すのをやめた顔だった。——いや。見つけた人の顔かもしれない。
葬儀の後、父が直人に言った。
「老人ホームの部屋は今月末に明け渡す。遺品はお前に任せる。必要なものがあれば持っていけ。残りは処分しろ」
「自分で見て判断する」
「——直人。お前まであいつの二の舞になるなよ。修復の仕事はまともだ。あのまままともに生きろ」
父の声に怒りはなかった。疲労だけがあった。三十年近く、父親の「妄想」に振り回された男の疲労。直人は反論しなかった。反論する材料がなかった。祖父の言葉が本当かどうか、直人自身にもまだ分からなかったから。
翌日、老人ホームを訪ねた。
祖父が最後の三年間を過ごした部屋は、練馬区の住宅街にある小さな施設の六畳一間だった。窓からは隣のアパートの壁しか見えない。かつて宮内庁の修復室で国宝に触れていた人の最後の住処としては、あまりに狭い。
部屋の中は、祖父の人生が凝縮されていた。
本棚に歴史書がぎっしり並んでいる。背表紙が日焼けしたものが多い。「日本近世史研究」「幕末維新の財政」「徳川将軍家の宝物」。壁には日本地図と、何本もの赤い線が引かれた関東地方の拡大図。机の上に虫眼鏡とルーペ。引き出しの中に大学ノート。
直人は研究ノートを手に取った。走り書きの文字。だが修復士らしく、日付と出典は正確に記されている。
ノートは二冊あった。
一冊目。表紙に「調査記録 一九八九年〜二〇〇五年」。二冊目は「調査記録 二〇〇五年〜二〇一八年」。三十年近い研究の全記録が、この二冊に収まっている。
二冊目の最後のページに、こう書かれていた。
「二〇一八年三月十二日。手がかりは揃った。あとは、継ぐ者を待つのみ」
二〇一八年。六年前。祖父がホームに入る前年。「手がかりは揃った」。だが祖父は、その全容を誰にも伝えないまま死んだ。
いや。伝えようとした。直人に。最後の面会で。
額縁の裏を見ろ。
直人は部屋を見回した。壁に額縁が三つ。一つは祖父と祖母の結婚写真。一つは直人が小学生の頃、祖父と姫路城を訪ねた時の写真。二人とも笑っている。直人が石垣の前でピースサインをしている。祖父がその横で、石垣を指差しながら何か喋っている。
そして三つ目——富士山の絵の額縁。
リトグラフだ。安い印刷物。特に価値のある絵ではない。薄い木の額縁に入っている。
直人は額縁を壁から外した。裏返す。裏板はベニヤ板。小さな釘で留めてある。修復士の手つきで丁寧に釘を抜き、裏板を外した。
額縁と裏板の間に——紙が挟まっていた。
古い紙幣。
直人は指先で慎重に紙幣を取り出した。和紙に近い手触り。独特の繊維の密度。修復士の指は、紙の年代を触感で推測できる。百年以上前の紙だ。
旧一円札。明治時代の紙幣。表面に龍の図柄。裏面に富士山。「大日本帝国政府」の文字。
直人は紙幣を光に透かした。修復士の習性だ。紙の状態を見るとき、まず光に透かす。
光に透かすと——紙幣の中に、三つの穴が開いていた。
穴は極小。直径一ミリ以下。針で突いたような穴。虫食いかとも思ったが、三つの穴の配置が妙に正確だった。不規則ではない。裏面の富士山の図柄の上に、意図的な配置で三つの穴が並んでいる。
直人は穴の断面に触れた。繊維の切断面が鋭い。虫食いなら繊維が崩れるが、これは刃物か針で貫通させた断面だ。
祖父が開けたのか。それとも、もっと昔の誰かが。
直人は紙幣を研究ノートの間に挟み、ノート二冊と一緒にカバンに入れた。部屋を出る前に、もう一度振り返った。六畳の部屋。虫眼鏡と地図と本棚。窓の外の壁。
額縁の裏にあった、祖父の「入り口」。
これが入り口なら——どこに通じている。
シェアオフィスに戻り、修復台の上に旧一円札を置いた。ルーペで穴を観察する。
三つの穴。配置は二等辺三角形に近い。底辺が紙幣の下部にあり、頂点が上部。三つの穴はすべて裏面の富士山の図柄の範囲内に収まっている。
穴の縁を観察した。繊維の切断面が鋭い。これは意図的に開けた穴だ。
祖父のノートを開いた。一冊目。穴についての記述を探す。
ノートの初期は、徳川埋蔵金に関する一般的な調査記録だった。赤城山の発掘調査の分析。テレビ番組の検証。日光東照宮の伝説の整理。いずれも「手がかりなし」と結論されている。
だが一九九三年の記録から、トーンが変わった。
「一九九三年五月八日。書陵部の収蔵庫で、幕末期の宮内省記録を閲覧中、興味深い文書を発見。慶応四年三月の日付。差出人不明だが、徳川家近臣と推定。文書には『御宝物ノ件、五ヶ所ニ分散完了。地図ハ分断シ、日常ノ中ニ溶ケ込マセタリ。百年経テモ千年経テモ、壊サレヌモノノ中ニ。鍵ハ旧札ニアリ』とある」
鍵は旧札にあり。
直人は旧一円札を見つめた。祖父はこの文書を見つけて、旧札を探し始めたのだ。
「一九九三年六月。明治初期の旧一円札を古銭商から入手。複数枚を比較したところ、一枚だけ異常あり。裏面富士山図柄上に極小の穴三つ。虫食いではない。針による穿孔。穴の位置は富士山山体上に集中」
直人が持っている一円札。祖父が三十年前に見つけたものだ。
「三つの穴を地図に投影する。紙幣の富士山と実際の富士山周辺の地形図を重ね合わせると、三つの穴は実在の三地点を指す可能性あり。ただし紙幣のスケールが不明であり、対応する縮尺が特定できない」
祖父は縮尺で行き詰まっていた。穴が地図上のどこを指すのか、基準点がなければ計算できない。
直人は財布から千円札を出した。裏面に本栖湖からの富士山。旧一円札にも富士山が描かれている。もし二枚の紙幣の富士山を基準にして重ね合わせれば——
直人は二枚の紙幣を修復台の上に並べた。サイズが違う。当然だ。だが富士山の山頂を中心に重ね合わせることはできる。
千円札の上に旧一円札を重ね、光に透かした。三つの穴が、千円札の富士山の上に影を落とす。光点が三つ。
だがこれだけでは座標は出ない。スケールの計算が必要だ。
「早川」
隣の席のITエンジニアが、イヤホンを外した。
「何すか」
「座標の計算を手伝ってくれないか。紙幣の上の点の位置を、実際の地図座標に変換したい」
「射影変換っすね。基準点が要る。——何の話すか?」
「祖父の遺品だ。この紙幣に穴が開いていて、地図上のどこを指しているか知りたい」
早川が身を乗り出した。旧一円札を見せると、目を丸くした。
「明治の札じゃないすか。これに穴? ——で、地図? 面白いっすね」
「面白いかどうかは分からない。祖父は本気だったが、周りは妄想だと思っていた」
「妄想かどうかは、計算すりゃ分かるっす。——千円札の富士山は本栖湖からの構図っすよね。富士山頂の座標と本栖湖の座標、両方とも確定してる。基準点二つで射影変換できる」
早川はノートPCを開き、キーボードを叩き始めた。Pythonのコード。座標変換。射影行列。直人には読めないが、早川の指に迷いはない。
二十分後、早川が画面を回した。Googleマップに三つのピン。
「出ました。旧一円札の穴三つの地理座標」
一つ目のピン——鎌倉。高徳院。
「鎌倉大仏——」直人が声を上げた。
「ビンゴ?」
「祖父のノートに鎌倉大仏の記述がある。合ってる」
二つ目のピン——東京都千代田区丸の内。
「東京駅。丸の内駅舎」
三つ目のピン——東京都北区上中里。
「これは——国立印刷局の王子工場だ。紙幣を刷っている場所」
「紙幣の穴が、紙幣を作ってるとこを指してる?」
「偶然じゃない」
直人は旧一円札を見つめた。三十年前に祖父が見つけた紙幣。その穴は三つの場所を指していた。鎌倉大仏。東京駅。国立印刷局。
祖父のノートに戻った。鎌倉大仏について、こう記されている。
「一九九五年九月。大仏胎内を調査。秋分の日の午後三時、背面の二つの窓からの光が胎内の特定の一点で交差することを確認。交差点の壁面に微かな浮き彫りを発見。紋章。菊の御紋に似るが、花弁の数が十六ではなく十四。——二枚足りない」
秋分の日。午後三時。
直人はカレンダーを見た。今日は九月十八日。今年の秋分の日は九月二十二日。
四日後。
「早川」
「何すか」
「秋分の日に鎌倉に行く。——付き合ってくれるか」
「大仏の中に暗号があるかもしれない、って話すか。——行くっす。カメラ持っていきます」




