飼育される幸福:最終部
手術の朝、部屋は妙に静かだった。 美咲は白いワンピースに着替え、まるで神聖な儀式に臨む巫女のような清廉さを纏っていた。
「おはよう、拓海くん。今日から新しい人生の始まりだね」
彼女は僕の意識を飛ばすための深い麻酔薬を準備し始めた。僕は指一本動かせない体で、ただ天井を見つめていた。逃げることはもう諦めていた。けれど、意識の混濁の中で、僕は一つの「矛盾」に気づいてしまった。
彼女は、僕が「傷つく理由」を消したいと言った。 けれど、今僕を最も深く、再起不能なまでに傷つけているのは、誰なのか。
「美咲……」 僕は残った力を振り絞り、掠れた声で彼女を呼んだ。
「なあに? 拓海くん。怖い? 大丈夫、起きたら全部終わってるから」
「……君は、僕が……『僕』じゃなくなっても、愛してくれるの?」
彼女の手が止まった。 「どういうこと?」
「脚を失って、薬で頭を壊されて、ただ呼吸して、君に食事を与えられるだけの肉の塊になっても……それは本当に、君が愛した『拓海』なのかな。君が愛しているのは、僕じゃなくて……自分の思い通りに動く『お人形』なんじゃないの?」
美咲の瞳から、光がさあっと引いていった。 それは今まで見せたどの狂気よりも深い、奈落のような暗闇だった。
「お人形……?」 彼女は呟き、手に持っていたメスをじっと見つめた。 「そうか……。確かに、拓海くんが壊れて、何も考えなくなったら……それはもう、私に笑いかけてくれた拓海くんじゃないのかも……」
彼女は力なく笑い、メスを床に落とした。 カラン、という乾いた音が部屋に響く。僕は一瞬、助かったのかと思った。しかし、彼女の次の言葉が、その淡い希望を粉々に砕いた。
「じゃあ、どうすればいいんだろう。拓海くんが『拓海くん』のままで、でも絶対に私から離れず、永遠に変わらないでいてくれる方法……」
美咲は、棚の奥から一本の、ラベルのない瓶を取り出した。 そこには、透き通った液体が入っていた。
「拓海くん、ごめんね。私、間違ってた。肉体があるから、心が変わるんだよね。細胞が入れ替わるから、感情が薄れていくんだよね」
彼女は僕の横に横たわり、僕の首筋に顔を埋めた。 「『標本』になろう?」
彼女の手には、強力な防腐剤と、致死量の青酸化合物が握られていた。
「これなら、今の拓海くんのまま、一番綺麗なままで、ずっと一緒にいられる。私もすぐに後を追うから。そうすれば、誰にも邪魔されない、腐ることもない、完璧な永遠が手に入るよ」
彼女は迷いなく、自分の腕に毒薬を打ち込んだ。 そして、まだ動いている僕の腕に、同じ針を向けた。
「愛してるよ、拓海くん。やっと、一つになれるね」
視界が急激に暗転していく。 最期に見たのは、毒が回って苦しそうに、けれど最高に幸せそうに微笑む美咲の顔だった。 数ヶ月後、異臭を不審に思った近隣住民の通報により、その地下室が発見された。 そこには、薬品で処理され、まるで眠っているかのように美しい姿のまま抱き合う、男女の死体があったという。 二人の体は、銀色の鎖で固く、固く結ばれ、鍵はどこにも見当たらなかった。




