飼育される幸福:第三部
その「素晴らしいこと」は、ある日、美咲が持ってきた一本の注射器と共に始まった。
「拓海くん、最近少し元気がないでしょう? ずっと部屋にいるから、筋肉が落ちちゃったのかも」
彼女はそう言って、抵抗する力も残っていない僕の腕を、慣れた手つきでアルコール綿で拭った。針が入り、冷たい液体が血管に流れ込む。途端に、全身の力が抜け、意識が霞のような乳白色に染まっていった。
「これね、私が調合したの。拓海くんが、余計なことを考えて苦しまないための魔法の薬」
薬の効果は絶大だった。 恐怖も、怒りも、逃げ出したいという渇望も、すべてが遠い海の底に沈んでいくような感覚。ただ、美咲の声だけが、脳内に直接響く心地よい音楽のように聞こえ始める。
数日後、彼女はさらに「素晴らしい贈り物」を持ってきた。 それは、重厚な革張りの椅子と、いくつかの外科用器具だった。
「ねえ、拓海くん。鎖って、痛そうで見ていられないの。もっとスマートに、拓海くんがここから出たくなくなる方法を見つけたんだよ」
彼女はうっとりとした表情で、僕の脚を撫でた。 「この脚があるから、拓海くんは『外に行けるかも』って思って、絶望しちゃうんだよね。期待があるから、苦しいんだよ。だからね、その期待を、物理的に失くしてあげようと思って」
彼女が何を言っているのか、朦朧とした頭ではすぐには理解できなかった。 美咲は僕の前に、一枚の書類を置いた。それは、どこかの闇医者に依頼したと思われる、僕の「両足切断」の同意書だった。もちろん、署名欄にはすでに僕の筆跡を完璧に模倣した名前が書き込まれている。
「歩けなくなれば、拓海くんはもう、外の世界なんて気にしなくてよくなる。私が、拓海くんの脚になってあげる。トイレも、お風呂も、移動も、全部私が抱っこしてあげる。……素敵だと思わない? 究極の共依存。二人で一人の生き物になるの」
僕は叫ぼうとした。しかし、薬のせいで舌が回らない。 美咲は僕の恐怖に歪んだ顔を見て、愛おしくてたまらないというように、僕の唇に深いキスをした。
「そんなに喜ばないで。手術は明日だよ。今日は、最後にお祝いのディナーにしようね。拓海くんが歩いてる姿を目に焼き付けておくから」
その夜、彼女は僕を無理やり立たせ、部屋の中を歩かせた。 鎖が床を擦る音。ふらつく僕の体を、彼女が強く抱きしめる。 「上手、上手。明日からは、一生私が運んであげるからね。拓海くんは、私の腕の中でただ呼吸して、私を愛していればいいの。……ああ、幸せ。やっと、完璧な関係になれるんだ」
窓のない部屋。消毒液の匂い。 明日には、僕は物理的に「逃げる」という概念すら奪われる。
美咲は、銀色に輝くメスを愛おしそうに磨きながら、鼻歌を歌っていた。 それは、僕たちが大学の学祭で一緒に聴いた、幸せな恋の歌だった。




