飼育される幸福:第一部
目を覚ますと、そこはいつもの自分の部屋ではなかった。
窓のない、コンクリート打ちっぱなしの空間。清潔ではあるが、微かに消毒液と、甘ったるい香水の匂いが混じっている。 僕はベッドに横たわっていた。右足首には、ずっしりと重い違和感。見れば、銀色の鎖が細い脚に繋がれ、床に固定されたリングに通されていた。
「あ、起きたんだ。おはよう、拓海くん」
扉が開き、彼女——美咲が、トレイを持って入ってきた。 エプロン姿の彼女は、大学の講義で会っていた時と変わらない、穏やかで可愛らしい笑顔を浮かべている。
「……美咲、これはどういうことだ? ここはどこだよ」
掠れた声で問いかけると、美咲は小首を傾げて、僕の枕元に腰を下ろした。冷たい指先が、僕の頬をなぞる。
「拓海くん、あんなに言ったじゃない。外の世界は汚れているし、悪い人がいっぱいいるんだよって。昨日も、サークルの後輩の女の子と楽しそうに話してたでしょ? 私、胸が張り裂けそうだったんだから」
昨日の記憶が断片的に蘇る。 確かに僕は後輩と談笑していた。帰宅途中の暗がりで、背後に誰かがいた気配がして、そこから先は……。
「だからね、決めたの。拓海くんを、誰にも汚されない安全な場所に隠してあげようって。ここなら、私以外誰もいないよ。意地悪な後輩も、うるさい教授も、拓海くんを苦しめるものは何もないの」
美咲はトレイから、一口サイズにカットされた梨をフォークで差し出した。
「さあ、あーんして。拓海くんのために、一番甘いところだけ選んできたんだよ」
僕はそのフォークを拒むように顔を背けた。 途端に、彼女の笑顔が消えた。 表情が抜け落ち、ただの「肉の仮面」のようになった瞳が、じっと僕を見据える。
「……食べないの? 私の愛、捨てるの?」
彼女の手が、トレイの横に置かれたフルーツナイフに伸びる。 美咲は自分の左腕を出し、その刃をゆっくりと押し当てた。白い肌に、細い赤い線が走り、血がじわりと滲む。
「拓海くんが食べてくれないと、私、自分が生きてる意味が分からなくなっちゃう」
狂っている。 僕は恐怖で震えながら、彼女の差し出した梨を口に含んだ。 甘いはずの果実は、鉄の味と、得体の知れない絶望の味がした。
「おいしい? よかった」
美咲は再び花が咲いたような笑顔に戻り、自分の腕の傷を愛おしそうに舐めた。
「大丈夫だよ、拓海くん。ゆっくり時間をかけて、私だけのものにしてあげるからね」




