聖域の食卓:第三部
均衡が崩れたのは、僕が隠し持っていた「赤」が見つかったからだった。
それは、学校の裏庭で拾った、一欠片の赤いプラスチックの破片だった。何の変哲もない玩具の一部だろう。でも、白と無機質な色彩に塗りつぶされたあの家の中で、その鮮烈な赤は、僕にとって唯一の「生」の証のように思えた。僕はそれを、学習机の引き出しの奥、二重底にした隙間に隠していた。
その日、学校から帰ると、家の空気がいつも以上に凍りついていた。 玄関に入った瞬間、漂白剤の匂いではない、異様な臭気が鼻をついた。
リビングへ向かうと、そこには父さんが立っていた。 足元には、僕の机から引きずり出された教科書やノートが、無残に切り刻まれて散らばっている。 そして、父さんの白い手袋をはめた手の中には、あの「赤い破片」があった。
「渉、これは何だ」
父さんの声は、怒鳴るよりも恐ろしい、地を這うような静けさを湛えていた。 「……ただの、拾い物だよ」 「拾い物だと? お前は、外の腐敗を、この聖域に持ち込んだのか。この毒々しい赤を、私の目に、母さんの目に触れさせたのか」
父さんは一歩、また一歩と近づいてくる。 傍らでは、母さんが床に膝をつき、必死に床を磨いていた。僕が持ち込んだ「不浄」を消し去るかのように。彼女の指先はすでに血が滲んでいるのに、彼女は笑っていた。 「ごめんなさい、あなた。渉が、渉が悪いんじゃないの。外の空気が悪いのよ。全部、洗い流せばいいの」
「母さん、もうやめてよ!」
僕が叫んだ瞬間、父さんの拳が僕の頬を弾いた。 床に倒れ込んだ僕の視界が火花を散らす。口の中に、鉄の味が広がった。
「血だ。汚れた色が出たぞ」
父さんの目が、歓喜にも似た狂気で大きく見開かれた。 「浄化しなければ。渉、お前の中にはまだ、こんなに汚い色が詰まっているんだ。全部、出さなければならない」
父さんは僕の髪を掴み、キッチンへと引きずっていった。 母さんはその後ろを、雑巾を持って這いずりながらついてくる。
「お父さん、やめて! ごめんなさい!」 「黙れ。これは愛だ。お前を完全な白に戻してやるための、儀式だ」
父さんが取り出したのは、いつも野菜の皮を剥くためのピーラーと、大きな業務用ボトルのアルコールだった。 彼は僕の腕をテーブルに押さえつけた。
「まず、表面の汚れを剥ごう。話はそれからだ」
銀色の刃が僕の腕に当てられる。 僕は恐怖で声も出ず、ただ目を見開いた。 隣で母さんが、うっとりとした表情でその光景を見守っている。彼女は僕の耳元で、優しく、本当に優しく囁いた。
「大丈夫よ、渉。痛いのは、あなたがまだ『人間』でいようとするから。真っ白なモノになれば、もう何も痛くないのよ」
キッチンの換気扇が、無機質な音を立てて回り始めた。 僕の視界の端で、あの赤い破片が、床に転がったまま冷たく光っていた。




