聖域の食卓:第一部
我が家の食卓には、欠かしてはならない「儀式」がある。 夕食の合図は、父さんが鳴らす小さな銀のベルだ。その音が響くと、僕と母さんはどれほど忙しくしていても、三秒以内に席に着かなければならない。
「今日も、家族が揃ったことに感謝を」
父さんが厳かに言う。僕と母さんは手を合わせ、深く頭を下げる。 テーブルに並ぶのは、いつも決まって真っ白な料理ばかりだ。皮を剥かれすぎた大根、真っ白なカリフラワー、そして形が崩れるまで煮込まれた鶏の胸肉。父さんは「色」を嫌う。色は雑念を呼び、純粋な家族の絆を汚すのだという。
「……渉、今の動きは何だ?」
父さんの声が低く響いた。箸を動かそうとした僕の手が凍りつく。 父さんの視線は、僕の右手の指先に注がれていた。
「爪の間に、何がついている」
見ると、中指の爪の先に、ほんの僅かな、墨汁のような黒い汚れがあった。学校の書道教室でついたものだろう。石鹸で洗ったつもりだったが、完全には落ちていなかったらしい。
途端に、母さんの顔から血の気が引いた。彼女はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、僕の隣に駆け寄る。 「ごめんなさい、あなた! すぐに、すぐに洗浄しますから!」
母さんは僕の腕を掴むと、引きずるようにして洗面所へ向かった。背後で、父さんがゆっくりと真っ白な大根を口に運ぶ音が聞こえた。咀嚼の音だけが、静まり返ったリビングに響いている。
洗面所に押し込まれた僕の前で、母さんは狂ったようにタワシを動かした。 「どうして、どうしてちゃんと落とさなかったの。パパが汚れを嫌うのは知っているでしょう。ねえ、渉、あなたはパパに捨てられたいの?」
母さんの目は血走り、焦点が合っていない。彼女が振るうタワシが、僕の指の皮膚を削り、赤黒い血が滲み出す。
「お母さん、痛い、痛いよ」 「ダメよ、赤くなっちゃダメ。赤は色でしょう? 白くしなきゃ。パパが怒る前に、白くしなきゃいけないのよ」
母さんは漂白剤のボトルを手に取り、僕の指先に勢いよく振りかけた。 激痛に声も出ない僕の耳元で、母さんはうわごとのように繰り返した。
「私たちは幸せなの。こんなに綺麗な家族は他にないのよ。ねえ、そうでしょう?」
リビングからは、父さんが鳴らす二度目のベルの音が聞こえた。 「まだか。不浄が残っているのか」
その声を聞いた瞬間、母さんの顔から表情が消え、ただの「人形」のような笑みが貼り付いた。彼女は僕の傷だらけの手に白い包帯をぐるぐる巻きにして隠すと、優しく僕の肩を抱いた。
「さあ、戻りましょう。幸せな夕食の続きよ」
僕たちは再び、白一色の食卓へと戻る。 包帯の下から滲む血が、真っ白なシーツのようなテーブルクロスに一滴だけこぼれた。僕は反射的にそれを自分の太ももで隠した。
これが、僕の愛する「幸せな家族」の日常だ。




