『囮の補給車』
氷点下五十四度。
午前と午後の区別がつかないほど空は白く、
吹き付ける風が砂のように雪を叩きつけてくる。
こんな地獄で、
補給車両一台を動かすだけでも命がけだ。
だが今から動かす“それ”は――
ただの補給車ではない。
「……本当にやるの? この作戦」
アニエス少佐が眉を寄せ、俺をまっすぐ見た。
地図上には一台のルートが描かれている。
「“囮の補給車”……?」
「ああ。偽物だ」
俺――ユーリ・コールドウェルは、
凍えた指でルート線をなぞりながら説明する。
「本物の補給車は動かさない。
代わりに、燃料タンクを空にした囮車両を送る」
「でも……そんなの、敵に見破られない?」
「見破られるかどうかは問題ではない」
「え?」
「重要なのは、
敵に“疑わせる”ことだ。」
アニエスは息を呑んだ。
「……イゴールと同じ手を使うのね」
「心理戦には心理戦で返す。
イゴールが毒補給を混ぜた地点に、
こちらも“偽物の補給”を近づける」
副官が不安げに口を挟む。
「ですが中佐、この気温では……
囮車両に乗る乗務員が危険では?」
「乗務員は不要だ」
俺は簡潔に答えた。
「無人走行だ。
凍結地帯用の自走プログラムで、三時間は動く」
「無人……!?」
「イゴールの手口を逆手に取る。
彼は必ず“混入地点に近づくもの”を監視している。
囮でも、反応をすればそれでいい」
アニエスがゆっくりとうなずいた。
「つまり……囮車両に反応した“影”を追えば、
混入地点と敵工作員を絞り込めるってことね」
「その通りだ」
吹雪が窓を揺らす。
氷の粒が叩きつけるその音は、
どこか鉄の爪で壁を引っかくようだった。
「問題は……敵がどこまで反応するか、ね」
アニエスが小さく呟く。
「イゴールは単純ではない。
こちらが囮を使うと読んで、逆に――」
「“無視する”可能性もある」
「そう。
だから緊張感があるわけだ」
俺は小さくうなずき、
囮補給車に取り付けた“熱源センサー”を確認した。
「敵が囮に接触した瞬間、
センサーが熱変化を拾う。
イゴールがどれほど周到でも、
こちらを観察しない限り混入地点は維持できない」
「つまり……観察の瞬間を捉えるってわけね」
「その瞬間だけでいい。
そこから逆算すれば、正体に辿りつける」
アニエスは大きく息を吸い、
吹雪の音に負けない声で言った。
「――囮車、出すわよ!」
《囮車両、起動開始!》
外の雪原に止められた無人補給車のエンジンが唸り、
ゆっくりと動き出す。
白い地獄へと一台の影が吸い込まれていった。
――三十分後。
《報告!
囮車両の後方に、微弱な“熱源反応”!
距離にして二百メートル!》
「……来た」
アニエスの声が震える。
「追尾……?」
「いや、これは“観察”だ。
敵が位置を確認している」
俺は即座に地図に反応地点を打ち込む。
「この角度、この距離――
混入地点は第八中継所で間違いない。」
「やった……!」
アニエスは、思わず拳を握りしめた。
「ユーリ……あなた、本当に読んでたのね」
「イゴールが混入地点を守るなら、
必ず“動きを確認する”必要がある。
囮に反応した時点で答えだ」
だがその時――。
《追撃反応!
囮車両に高速接近する影を確認!
速度……尋常じゃありません!》
アニエスが青ざめる。
「ちょ……追ってきてる!?
囮だって気づいた!?」
「いや、違う」
俺は冷えた息を吐いた。
「これは……
“囮を壊しに来た”動きだ。
イゴールの反撃が始まった」
吹雪が壁を叩き、
基地全体が軋むような音を立てた。
凍土は牙を剥き始めている。




