『凍土の疑心』
毒補給の影は、想像以上の速度で軍全体を蝕み始めていた。
氷点下五十度の凍土では、暖房が止まれば十分で指が黒くなり、
三十分で意識が落ち、
一時間で命が潰える。
その環境で――
《報告! 第壱陣地で“補給担当の裏切り”という噂が拡散中!
兵士同士の口論、複数発生!》
「……ついに出たか」
俺――ユーリ・コールドウェルは、
報告書を握りしめながら凍える背筋を感じていた。
毒補給によって燃えない燃料が届く。
暖房は止まり、兵士は凍え、
原因が分からない不安は“疑心”へと形を変える。
「裏切り者が燃料を薄くした」
「補給部にスパイがいる」
「司令部は何も知らないふりだ」
そんな言葉が前線で飛び交い始めていた。
そこへ――アニエス少佐が吹雪を振り払うように飛び込んできた。
「ユーリ! 現場が……もう限界よ!」
頬も鼻も真っ赤に凍傷で染まり、
吐く息が白く揺れている。
「何が起きている?」
「第三陣地では暖房車が五台中四台停止。
兵士たちは震えながら、
“補給部に裏切り者がいる”って騒ぎ始めてる!」
「……イゴールの狙いどおりだ」
「分かってる! でも……現場は“理由”なんてどうでもいいのよ!」
アニエスは震える手で報告を叩きつける。
「寒いの! 死ぬの!
だから誰かを責めたい……それだけ!」
たしかにその通りだ。
凍土の環境は、人の理性を削り取る。
氷風が肌を裂き、
冷気が肺を刺し、
“生きているだけで痛い”世界だ。
そんな場所で、
燃料が使えなくなったと知れば――
人はまず誰かを疑う。
「中佐!」
副官が駆け込んできた。
「第二十六補給隊の兵士が……
“自分の燃料庫に毒を仕込まれた”と叫び、
上官と殴り合いになりました!」
「……暴動の一歩手前か」
アニエスが唇を噛む。
「このままじゃ補給どころじゃない!
兵たちが互いを敵だと思い始めてるのよ!」
「分かっている」
「なら、何とかしてよ! このままじゃ……」
「待て。対処法はある」
俺は端末を操作し、緊急指示を入力した。
「“簡易熱源キット”を全補給隊に配布だ」
「簡易……?
でもあれ、常温で三十分しか持たないわよ?」
「十分だ。
“燃料が信用できない”のなら、
“燃料を使わない暖”を一時的に与える」
副官が息を呑む。
「つまり……
兵士の不安を、“暖かさ”で抑え込む……?」
「ああ。
暖房が戻るまでの時間を稼ぐ。
凍死を防ぎ、不信の連鎖を止める」
アニエスは驚いたように目を見開いた。
「そんな発想……あなたらしくないわね」
「誤差ゼロの計算は、一度壊された。
だから今は……“誤差を繋ぐ”」
「……変わったのね、ユーリ」
彼女は雪のついた髪を振り落とし、
部下へ向かって叫んだ。
「全隊に通達!
簡易熱源キットを即時配布!
これで凍死を防ぐわよ!」
《了解!》
ほどなくして、
簡易熱源の効果で前線の混乱はゆるやかに収まり始めた。
だが――。
《報告!
毒補給の“混入地点”は未だ不明。
補給線のどこで細工されたのか特定できません!》
アニエスが息を止めるようにつぶやいた。
「……ユーリ、
このままじゃ、また同じことが起きる」
「分かっている」
「じゃあ……どうするの?」
俺は画面を睨みつけ、静かに言った。
「“混入地点を特定する”」
「どうやって?」
「普通の方法では無理だ。
だから――
“敵が望む方向から逆算する”」
アニエスが息を呑む。
「逆算……つまり、
イゴールの狙いから推理するってこと?」
「そうだ。
奴の心理戦を解体していく」
吹雪が窓を揺らし、
氷の壁を引っかくような音が響く。
凍土の向こう側で、
氷の悪魔がまたひとつ笑った気がした。




