『氷の悪魔の興味』
敵補給線を叩き潰してから一夜。
凍土の朝は、今日も容赦なく冷たかった。
天幕の外は、氷点下五十度。
吐いた息は瞬時に白く凍り、
金属は皮膚に触れただけで肉を奪う。
風が吹けば、骨の髄まで冷たさが突き刺さる。
その苛烈な世界の中で、
司令部にだけ、わずかな温かさが満ちていた。
「中佐、今回の勝利……前線から礼が届いています!」
副官が震える指で端末を差し出す。
暖房の効いた室内でも、手袋は外せない。
油断すれば、指先が黒く変色するからだ。
アニエス少佐は、温度計をじっと睨みつけながら言った。
「……氷点下五十度って数字、
見るだけで胃が痛くなるわね。
外で待ち受けてる兵たちは、本当に地獄よ」
「兵士たちはよく持ちこたえている。
今回の補給成功は大きい」
「そうね。あなたの計算がなかったら、
凍死者が一桁どころじゃ済まなかったわ」
彼女は息を吐く。
それで空気が一瞬凍り、白い霧が揺れた。
この凍土では、
“息をすること”すら負担だった。
そのとき――通信士が駆け込んだ。
「ち、中佐! 緊急の……これを!」
彼の眉毛には白い霜がついていた。
屋外を数歩走るだけで凍りつくのだ。
渡された封筒を開くと、
中にはたった一行の文字。
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《“北の計算士”へ。
次は俺が動く。
――イゴール・ストルコフ》
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「……やっぱり来たか」
アニエスが紙を覗き込み、目を見開く。
「イゴール・ストルコフ……
“氷の悪魔”と呼ばれる、あの怪物?」
「囮を見破ったから、俺に興味を持ったのだろう」
「まずいわ……。
あの男、兵士の命を“薪”扱いするのよ。
勝つためなら、味方を凍土に捨てることも平気」
アニエスの声には、
この戦場の寒さ以上の震えがあった。
「合理性が通じない相手よ、ユーリ。
あの男は“人間の弱さ”を使ってくるわ」
「弱さ……?」
「そう。
この寒さで心を折られた兵士ほど、狙われやすい。
イゴールはそこを突いてくる」
外では吹雪が唸り、
兵士たちは凍傷に耐えながら巡回している。
暖房車両の火が消えれば、十数分で命が尽きる世界だ。
そんな環境での“心の弱り”は致命的だった。
「イゴールが動くということは……
次は補給線そのものが狙われる」
「補給線……つまり“生命線”ね」
アニエスが肩を抱くようにして言った。
寒さではなく、これから来る戦いの予感に。
「あなたに興味を持たれた時点で、
次に来るのは“数字の外側”よ。
計算じゃ割り切れない攻撃が来る」
「なら、その“外側”を分解して見せる」
「ほんっとうに……そういうところよ、あなたは」
アニエスの苦笑は、
不安を押し隠すためのものだった。
俺は手紙を握った。
薄い紙が、指の熱を奪っていく。
遠く、吹雪の音に混じって――
低く嗤うような声が聞こえた気がした。
氷の悪魔、イゴール・ストルコフ。
彼が次に動くとき、
凍土の地獄はさらに深くなる。




