『零域の二つの影』
【アニエス視点】
氷点下六十三度。
零域の吹雪は、もはや“壁”に近かった。
アニエスは氷走隊に肩を押さえつけられ、
膝が雪へ沈み込んでいく。
(まずい……
このまま氷面に押しつけられたら……
呼吸が……奪われる……!)
氷走隊の指が喉元へ伸びる。
冷たさは刃物のようだった。
「っ……は……っ……!」
その時――
「やめておけ」
イゴールの声が割って入った。
氷走隊の動きが止まる。
「殺すなと言ったはずだ。
“活きた餌”でなければ意味がない」
氷走隊は無言のまま、
アニエスの胸を圧迫していた手をわずかに緩める。
だが――寒さで動かない体に、
その“わずかな緩み”すら利用できない。
(ユーリ……
来ちゃダメよ……
私なんかのために……!)
イゴールがアニエスの前に立った。
「さあ……見せてもらおうか。
“北の計算士”が、お前を助けるために
どこまで足掻くのかを」
「……ッ……!」
アニエスの歯が鳴った。
それは寒さではなく、悔しさの震えだった。
「……ユーリは……来ない……!」
「来るさ」
イゴールは断言した。
「“お前の命”という誤差が存在する限り、
あいつの計算は必ず揺らぐ。
揺らぎは焦りを生み、
焦りは判断ミスになる」
「……違う……!
あの人はそんなに弱くない……!」
「弱いさ。
人の心というものを、
あの男は恐ろしく理解していない」
イゴールは言った。
「理解できないものは、壊れやすいのだよ。」
氷走隊がアニエスを持ち上げた。
氷膜の上に倒れた身体が、ずるりと滑る。
「っ……あ……!」
(ダメ……もう動けない……!)
吹雪が白い獣のように吠えた。
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【ユーリ視点】
「中佐! 救助隊、隙間に入ります!」
「座標送信を続けろ。
風向きが三度変わったら“罠”だ。
必ず回避させろ」
《了解!!》
俺は端末を握りながら、
自分の心拍が上がっていくのを感じていた。
(落ち着け……まだ計算は死んでいない)
誤差をメインに据えた計算など、
本来あり得ない。
だが――
(今の俺には、誤差こそ道だ)
吹雪の動きを読み取り、
救助隊の位置を一秒ずつ修正する。
「風が南へ傾いた……隊列を三十度修正!」
《修正!!》
「地形が崩れる! 左へ跳べ!」
《跳んだ!!》
救助隊の姿は見えない。
ただ、端末の数値だけが命綱だ。
(アニエス……
もう少し……時間を稼いでくれ……!)
【アニエス視点】
氷走隊に肩と腕を掴まれ、
アニエスは氷の裂け目の縁に押し立てられていた。
下へ落ちれば即凍死。
その恐怖を、イゴールは理解したうえで
ぽつりと問うた。
「怖いか?」
「……怖くない……なんて言えるわけないでしょ」
「だが、お前は怯えていない」
イゴールはアニエスの目を覗き込んだ。
「なぜだ?」
「決まってる……
ユーリは……私を見捨てない……
でも、来させない……!」
イゴールは低く笑った。
「なるほど。
それはなかなかの矛盾だな」
「……!」
「だが、残念だ。
“来ない”という選択肢は、あの男にはない」
吹雪が横殴りに流れた。
その風向きが――変わった。
【ユーリ視点】
「……来た!」
風向きが五度揺らいだ瞬間、
俺は叫んだ。
「救助隊! 北北西へ十度!
アニエスが“移動させられた”!」
《了解ッ!!》
(イゴール……
俺に“移動した”と気づかせたな?
余裕だと思ったか……?)
だが、俺の計算はまだ折れていない。
風は嘘をつかない。
嘘をつくのは、常に人間だ。
【アニエス視点】
イゴールが指を鳴らした。
「第二段階――開始だ」
氷走隊がアニエスを
裂け目のさらに深い場所へ引きずろうと動く。
「っ……!」
(ダメ……!
あそこへ行けば……ユーリが来ざるを得ない……!)
アニエスはわずかな力で、氷走隊の腕を掴んだ。
「私は……餌なんかじゃない……!」
イゴールが静かに言った。
「餌かどうかは、お前ではなく――
“北の計算士”が決めることだ」
氷走隊がアニエスを持ち上げた瞬間――
吹雪が裂けた。
救助隊が姿を現したのだ。
「アニエス少佐!!
救助に来ました!!」
「えっ……!?
ど……どうして……!」
イゴールが目を細める。
「ほう……誤差を辿ったか……
やはり、“計算”は壊れやすいな」
そして、囁いた。
「だが、壊れるのはまだ先だ。」
次の瞬間、
零域全体が震えた。
地面が――沈み始めた。




