『零域への独断』
氷点下六十度。
零域――吹雪の中心は、
“世界から音が消える”ような静寂に包まれていた。
そこに、熱源が一つだけ存在する。
報告を受け、
俺――ユーリ・コールドウェルは端末を握りつぶしそうになった。
「本当に……イゴール本人がいるのか?」
「熱源は人間サイズよ。
しかも吹雪の中心で微動だにしないの。
普通の人間じゃありえないわ」
アニエス少佐が凍えた声で言う。
「……あいつ、わざとよ。
“来い”って合図だわ」
後方の兵士たちもざわつく。
「中佐をおびき出そうとしてるぞ……」
「これは罠に決まってる……!」
「零域なんて入れる温度じゃない!」
俺は深く息を吸い、冷静に言った。
「当然だ。
イゴールは零域で“待つ側”に立つことで、
計算不能の戦場へ俺を引きずり込みたいのだ。」
アニエスが強く言う。
「行く必要はないわ。
あなたは後方でこそ強い。
罠に乗ったら――死ぬだけよ」
「分かっている」
俺が前へ出れば、
補給全体が崩壊する。
それは絶対に避けなければならない。
しかし――
(イゴールは……なぜ自ら出た?
何を仕掛けた?)
その疑問が頭から離れない。
計算しようとすればするほど、
風向と温度変化が複雑すぎて解が出ない。
“計算不能領域”。
そこが、イゴールの狙いなのだ。
その時だった。
「……ユーリ、ちょっと行ってくる」
アニエスの声を聞いた瞬間、
俺は振り向いた。
「何を言っている?」
「あんたの代わりに、零域へ行くわ」
「待て」
即座に止める。
「零域は人間が入れる温度ではない。
突入すれば三十分で凍死する」
「でも……私は前線の人間よ。
氷穴も吹雪も、あなたよりずっと慣れてる」
「問題は慣れではない。
“仕掛け”がある。
イゴールが零域の中心にいる理由を考えろ」
「だからこそよ」
アニエスは、震える手で装備をまとめ始めた。
「あなたは後方の頭脳。
あんたが死ねば、この戦争は終わり。
でも私なら、行ける」
胸の奥に、
氷の針のような痛みが走った。
「アニエス、これは命令だ。行くな」
「命令……?」
アニエスは振り返り、
吹雪の中でもはっきり分かるほど鋭く笑った。
「ダメよ、ユーリ。
これは“任務”じゃないの。」
「……?」
「私は、“仲間を守る”ために動くの」
心が少し動揺した。
そんな言葉は、彼女から初めて聞いた。
「あなたは絶対に前に出ちゃダメ。
だから――代わりに行くのよ」
「アニエス!」
思わず声を上げてしまう。
しかし彼女は振り返らない。
指揮所の扉へ向かいながら、
静かに、しかし確かな声で言った。
「大丈夫。
“見てくる”だけだから。
戻ったら、あんたの計算に協力してあげるわ」
「アニエス――!」
氷点下の風が扉を押し開け、
アニエスは吹雪の中へ消えていった。
俺は動けなかった。
動けば、イゴールの思う壺。
零域に入った瞬間、計算が死ぬ。
だが――
胸の奥から、初めて
“計算以外の感情”
がせり上がって来る。
(……頼む、戻ってこい)
ただ祈るしかなかった。
そして――
《急報!
零域の気温、さらに低下!
地形の一部が“裂けています”!》
「裂けて……?」
俺は凍りついた。
イゴールが仕掛けた罠が、ついに動き出したのだ。




