『零域の風向』
氷点下五十八度。
凍土の空は白く曇り、
風は刃物のように頬を切り裂く。
外に出た兵士の睫毛は一分で白く凍り、
五分で指に感覚がなくなる。
十分快いて動きを誤れば凍傷で失われる。
そんな環境でも――
戦争は止まらない。
「中佐、気象観測塔から異常値です!」
報告を受け、
俺――ユーリ・コールドウェルは端末を覗き込んだ。
「風速が……変だな」
「はい。
午後から吹雪が弱まる予報でしたが、
逆に“倍近く”の暴風が観測されています!」
アニエス少佐が眉をひそめる。
「予報と真逆じゃない。
また計器の故障?」
「いや……」
俺はデータを連続再計算しながら、
喉の奥に小さな違和感が広がるのを感じていた。
「これは自然の変動ではない」
「自然じゃない……?」
「吹雪が“同じ方向へ流されている”。
谷間で風洞が作られている可能性が高い」
アニエスが息を呑む。
「風洞……まさか……
第八中継所でイゴールがやったあれ?」
「ああ。
人工的に吹雪を増幅させるやり方だ」
副官が震え声で言う。
「ということは……
敵がまた何かを準備している、と?」
「その可能性が高い」
俺は地図の上に風向線を描き、
吹雪の軌道を追う。
その線は、ゆっくりと……
ある一点へ収束していた。
「方向が一点にまとまっている……
まるで“誘導”しているようだな」
アニエスが苦い顔をする。
「誘導?
何を?」
「俺たちだ」
全員が息を呑んだ。
「イゴールがこの吹雪を作っている理由は――」
俺は確信を持って言った。
「“俺たちを前へ出させるため”だ。」
「前へ……って、どこに!?」
「この凍土の一番危険な“零域”。
吹雪圏の中心だ」
副官が震え声で言う。
「中佐……
そこは地形データも不完全で、
視界はゼロ、踏み固まっていない氷で……
普通の部隊は入れません!」
「普通は、な」
俺は端末を閉じ、静かに言う。
「だがイゴールなら、
そこに“何か”を仕込んでいる」
アニエスが鋭く言う。
「あなたを戦場に引っ張り出そうとしてる……?」
「その通りだ。
《極寒誘導作戦》……
名前からして、“誘う”のが目的だ」
「でも……
あんたは絶対に前に出たがらないタイプでしょ?」
「いや、出たくないのではない」
俺は静かに言い直した。
「前に出れば、“計算が死ぬ”。
だから後方で戦うだけだ」
「……そういう意味ね」
アニエスがやれやれと肩をすくめたが、
目の奥には緊張が宿っていた。
「で?
そのイゴールの誘い……乗るの? 無視するの?」
「無視する。
だが――“無視したという情報”は敵に渡す」
「は?」
「敵が誘うなら、
その誘いが『失敗した』と悟らせる必要がある」
アニエスはしばらく黙り込み……
やがて苦笑した。
「なるほどね。
あなたらしい“心理戦返し”だわ」
「誘いに乗らず、
乗ったふりもせず、
乗らなかった事実を敵に伝える。
それが最もイゴールを苛立たせる」
外で吹雪が壁を叩きつける。
氷の粒が窓を裂くような音を立てた。
「……誘いの中心である“零域”は、
監視だけ続ける。
絶対に近づくな」
「了解!」
その時――通信が割り込んだ。
《報告!
零域で“熱源一つ”を確認!
吹雪の中心に、何者かがいます!》
「熱源だと……?」
アニエスが息を呑む。
「この気温で熱源って……
普通はあり得ないわよ!?」
「いや、一人だけいる」
俺は極寒の地図を睨みつけた。
「イゴール・ストルコフ……
本人だ。」
吹雪が大きく唸る――
まるで、氷の悪魔が手招きしているかのように。




