『氷の悪魔の微笑』
氷点下六十度。
南方軍前線指揮所は、凍りついた巨大な洞窟をそのまま利用していた。
壁の氷は青く光り、わずかな暖房では空気を温めきれず、
兵士たちの吐く息が白い煙となって天井へ漂っていく。
その中心で――
イゴール・ストルコフ少将は毛皮のコートを脱ぎながら、
火にかけられた凍土茶をゆっくりすする。
彼の表情は、笑っているようで笑っていない。
その瞳だけが、氷よりも冷たかった。
「閣下。報告します」
部下が緊張を抑えながら口を開く。
「混入班三名が北方軍に捕獲されました。
尾根交点での包囲が成功したようです」
イゴールは、少しだけ眉を上げた。
「……ほう」
驚きではなく、どこか愉快そうな声音だった。
「ユーリ・コールドウェル。
やはり“北の計算士”は本物だな」
部下が思わず問う。
「で、ですが閣下……
混入班が捕まったとなれば、
作戦にとって大きな損害では――」
「損害?」
イゴールは茶を置き、ゆっくりと笑った。
「損害? あれは“計算に入っている消費”だ。」
部下は息を呑む。
「け、計算に……?」
「兵站戦とは、数字の世界だ。
作戦とは“何を失っても成立するように組むもの”。」
イゴールは椅子から立ち上がり、
凍りついた地図盤に歩み寄る。
「三名捕まった? 良いだろう。
混入班は三十名いる。
今回は“その三つが落ちた”だけだ。」
淡々と、とても自然に言った。
「むしろ喜ばしい。
北の計算士は、こちらの“影”に気付いたということだ。」
その声は賞賛にも似ていたが――
そこにはまったく温度がなかった。
「しかし……閣下。
敵に混入地点を知られたことで、
これ以上の作戦継続は――」
「継続するとも」
イゴールは冷たい笑みを浮かべ、
壁に吊られた巨大な鉄の箱へと歩いた。
鍵を外し、箱の蓋を開く。
中には――
凍りついたように静かに眠る兵士たちが並んでいた。
彼らこそ南方軍が誇る、短時間超加速突撃部隊
《氷走隊》 の次期投入兵だ。
眠っているのではない。
体温を意図的に限界まで下げ、
“無駄な生存エネルギーを凍結させている”のだ。
「心とは、温度だ」
イゴールは一人の兵の額に触れた。
凍土より冷たい。
「上げれば動く。
下げれば従う。
この地では、その両方が武器になる。」
部下が震える声で尋ねる。
「閣下……次の作戦は……?」
イゴールは兵士の額から手を離し、振り返った。
その笑みは、獣のそれだった。
「次は“北の計算士”を戦場に引きずり出す。」
「銃弾の届く距離までな。」
洞窟を吹き抜ける氷の風が、
まるで悪魔の囁きのように響いた。
「作戦名を伝える」
イゴールは高らかに宣言した。
《極寒誘導作戦》
「補給の天才は後方にいてこそ脅威。
ならば前へ出させればいい。
“計算では届かない場所”へとな。」
イゴールの目は、凍土のように無慈悲で、
同時にどこか楽しんでいるようでもあった。
「さあ、動くぞ――
北の計算士を、氷の檻に招こう。」




