『誤差の向こう側』
氷点下五十六度の吹雪が基地の壁を叩きつけ、
まるで凍土そのものが俺たちの作戦を嘲笑っているようだった。
囮車に刻まれたふたつめの刻印――
《補給は心だ。
お前はそれが分かっていない。》
その言葉が、何度も頭の中にこだました。
「……心、だと?」
俺――ユーリ・コールドウェルは地図を見つめながら呟く。
補給とは計算だ。
物資、距離、気温、需要――
すべて数字に還元できるはずだ。
なのに、イゴールは“心”と言う。
(心が……兵站の要?
そんな非合理な……)
俺はその思考を振り払おうとした。
だが、その瞬間――
基地の外で兵士たちの怒声が響いた。
《ふざけるな! 燃料を混ぜたのは誰だ!》
《裏切り者を出せ! 俺たちを殺す気か!》
アニエス少佐が駆け込んでくる。
「ユーリ! 前線の兵たちがまた揉めてる!
“補給部が信用できない”って!」
「……まだ鎮まっていないか」
「当たり前でしょ!
この気温で燃料が使えないなんて、
兵士にとっては“死の宣告”よ!」
アニエスは息を荒げ、
凍えた頬に赤い風跡をつけながら俺に詰め寄った。
「あなたの計算は正しい。
でも……現場の兵士たちは“不安”で動けなくなるの!」
「……」
「イゴールはそこを狙ってるのよ。
“心が折れた軍”は、計算なんてできない!」
胸の奥に、
冷たいものがじわりと広がっていった。
(……あの言葉も、ただの挑発ではないということか)
イゴールは、
実際に“心を折る”ことを兵站破壊の手段に使っている。
その結果として、
数値に表れない混乱が広がっている。
(数値化されない“心の変数”……
それこそが、誤差の正体か)
唇を噛んだ。
計算上は正しい。
だが、現場は動揺している。
この差を埋められなければ――
イゴールには勝てない。
アニエスが静かに言う。
「ユーリ……あんた、悔しいんでしょう?」
「……当然だ」
「なら、見つけなさいよ。
“心も含めて成立する補給”という答えを」
アニエスの言葉は、
吹雪の中で灯る小さな火のようだった。
(心を含める……
そんな曖昧なものを、どう扱えば……)
思考を巡らせていたその時――。
「中佐!」
副官が飛び込んだ。
彼の髪には白い霜がこびりつき、息も荒い。
「第八中継所近辺で、
“気温の逆転現象”を検知しました!」
「逆転……? つまり、局所的な温度上昇?」
「はい!
吹雪地帯の一角だけ、急に温度が五度上昇しています!」
アニエスが驚きの声を上げる。
「五度!?
氷点下五十六度で五度って……大事件よ!」
俺は地図を食い入るように見つめた。
(温度上昇……?
自然現象ではあり得ない。
外的な熱源……?)
「副官、発生位置はどこだ?」
「ここです! 第八中継所の南側尾根!」
俺は瞬時に立ち上がった。
「……混入地点が動いた可能性がある」
「動いた……!?
そんなこと……」
「可能だ。
イゴールなら、“俺たちが特定した地点”を逆に利用する」
アニエスが息を呑む。
「つまり……囮を逆に囮にされたってこと?」
「ああ。
だが、この温度上昇は隠し切れなかった痕跡だ」
胸の奥で、
久しぶりに熱い感覚が灯った。
「イゴール……
今回は、誤差を残したな」
「……ユーリ、何か見えたのね?」
「温度逆転の原因を突き止めれば、
混入の“本当の地点”に辿り着ける」
アニエスが嬉しそうに頷く。
「ようやく反撃できるのね!」
「いや、ここからだ。
イゴールは次の罠を必ず用意している」
吹雪がまた強くなり、
基地の壁が軋む音がした。
その音はまるで――
氷の悪魔が、
“次の手があるぞ”と囁いているようだった。




