『氷の観測者』
氷点下五十六度。
空気に触れただけで皮膚が裂けるほどの寒気が、
基地全体を容赦なく締めあげていた。
囮補給車が破壊されてから数時間――。
俺――ユーリ・コールドウェルは、
監視塔の地図を前に、静かに計算を続けていた。
「……これで、混入地点は確定だ」
アニエス少佐が覗き込み、眉をひそめる。
「第八中継所……やっぱり、ここなのね」
「ああ。
敵の影が囮車を追った角度、
熱源反応の位置、
視界の死角……すべて一致する」
アニエスは腕を組み、雪で濡れた髪を払った。
「でも……わざわざあんな示威行動までして、
イゴールは何を狙ってるの?」
「警告……そして、“挑発”だ」
「挑発……?」
「囮車に文字を刻んだのは、
『混入を止めたければ来い』という合図だ」
アニエスの顔色が変わる。
「つまり、誘ってるってこと……?」
「そうだ。
我々を第八中継所に誘導し、
そこで“何か”をするつもりだ」
副官が緊張した声で口を開く。
「罠……でしょうか」
「分からん。
だがイゴールは無駄な行動をしない。
誘う理由がある」
その時、通信士が駆け込んできた。
「中佐、大変です!
第八中継所周辺の温度、急激に低下!
計測不能領域に入りました!」
「計測不能……?」
アニエスが身を乗り出す。
「そんなことあるの!?
気象観測機が凍りついたってこと……?」
「いや、違う」
俺は窓の向こうの白い世界を見つめた。
「これは……“人工的に作られた吹雪”だ」
「人工……!? そんなことできるの?」
「イゴールならやれる」
俺は端末を叩き、気象データを高速で照合する。
「風向き、風速、気圧……
自然変動にしては変化が急すぎる。
彼は尾根の風洞を利用して吹雪を増幅している」
「風洞……?」
「谷間の一点で風を圧縮し、
吹雪を“一点集中の壁”に変える技術だ。
古い軍術書にも記述がある」
アニエスが顔を曇らせる。
「つまり――
第八中継所は“自然の盾”で閉ざされたってことね」
「ああ。
混入地点は特定できたが、
近づく術が封じられた。」
副官が恐る恐る言う。
「中佐……
これは手詰まり……ですか?」
「手詰まりではない」
俺は静かに言い返す。
「ただし――
イゴールがこちらの“次の手”を読んでいるのは確かだ。
そこが厄介だ」
アニエスが眉を寄せる。
「ユーリ、あなた……もしかして」
「そうだ」
俺は地図を指で叩きながら言った。
「イゴールは“混入地点の特定”すら計算に入れていた。
ここまでは、すべて奴の想定内だ」
「じゃあ……ここから先は?」
「ここからが、俺たちの出番だ」
その時――。
《新たな文字反応!
囮車の残骸に、もう一つ刻まれた跡を確認!》
「なっ……!?」
アニエスが叫び、映像を拡大する。
吹雪で削れた鉄面に、新たな刻印が浮かんでいた。
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《“補給は心だ”。
お前はそれが分かっていない。》
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俺は息を飲む。
「……心、だと?」
アニエスが言う。
「補給は……物資と計算じゃないってこと……?」
「違う。
“心を折ることが補給破壊の本質”だと……
奴はそう言っている」
基地を揺らす吹雪の音が、
まるで誰かの嘲笑のように響いた。
俺は拳を強く握り、
刻まれた言葉を睨みつけた。
「イゴール……
まだ本気ではないということか」
凍土の向こうで、
氷の悪魔の影がこちらをじっと見つめている気がした。




