その朝
ゲオルグの航海記前のお話
窓外が白み始めていた。夜明けの刺す様な冷え込みも薄らぎ、冬は終わりを告げている。
早起きの鳥の羽ばたきで目を覚ましたゲオルグは、一呼吸の後寝台から起き上がり窓へ近づくと大きく開け放つ。
冷んやりとした風が薄靄とともに入りこむ。眼下には靄に沈むベリアの街が暗い影に埋もれている。
湾のはるか先の水平線上が暗闇から後、見事な朝焼けに変わり空は明るさを増していく。上空には薄い雲がかかり薄明かりを反射して朱赤に染まっていた。
その朝焼けを映してシェリアースの宮殿も朱赤に染まっているのが手にとる様に見える。その色はかの人の姿を思い起こさせて、ゲオルグは知らず微笑んでいた。
(いよいよ、だな)
シェリアースの女主人と最後に会ったのはいつだったか。いつも忙しく、大勢の重臣達に囲まれているファナギーアと親しく話した記憶はない。国を支える武官の筆頭の家の長子としての認識はもちろんあるだろうが、彼女自身がゲオルグ個人にどの様な感情を持っているか?と聞かれれば、他よりは多少愛着がある、くらいのものだろう。
今まではそれでもいいと思っていたが、彼女を支える柱になるのであれば、それなりの資格と功績が必要だと気づいた。
ゲオルグ自身もそれまではイングリアの若き女王。女の身ひとつで国を支える彼女に、母の様な信頼を寄せていたと思う。
初めて会ったのは覚えていない程、幼い頃。父に連れられて何度も通ううち、自然と親しく言葉をかけて貰っていた。強く美しい、国の宝と漠然と感じていた。
それが変わったのは。
(あの時)
ゲオルグの脳裏に忘れもしないあの日が思い起こされる。
ひとりシェリアースの庭に出て、散策をするうちに人の気配に気づいたのは。
そこが、女王の私庭と知っていたので、咎められるのを気にして思わずそばの茂みに隠れた。手入れされている庭は迷路の様に、子供ひとり隠す事は容易な事だった。
「後は、構うな」
女性の声。付き従う者たちが静かに側を離れていく気配がしていた。ひっそりと鎮まり返る庭に噴水の音と、青々とした草むらと新鮮な水の香りが溢れかえるようだった。
やがて、水音に隠れる様にその女性がむせび泣く音が聞こえて来た。あまりに悲しい様子にゲオルグはそっと茂みから顔を出して覗いてみた。
(あ…女王…)
謁見の時の様な豪奢な衣装ではなく、緩い室内着を纏ったファナギーアはいつもの何倍も華奢に見えた。その背中が小刻みに震えているのが見える。
ゲオルグの知る彼女はいつも力強い微笑みを返してくれた。それが今、世にも悲しげな悲しみをひとり耐えている姿が、幼いゲオルグの心に突き刺さる。
(お母様と同じ…?)
それは、母がゲオルグの後の兄弟を死産した時の悲しみに似ていると思った。本来であれば弟のソルランデットとの間にもうひとり兄弟がいるはずだった。
後になって知ったが、この時は彼女が夫を亡くした直後だった。人前で泣くことも出来なかった彼女がここで初めてひとりになれたのだ。
その時の、どうしようもなく湧き上がる感情が、いつしか彼女を支え守りたいという気持ちに変わっているのに気づいたのは何時頃からだったのか。
抑えきれない気持ちを家をでて船に乗り込むことで、気づかない振りをして来たが、やっと心が決まったと思う。
血脈の中に流れる運命ともいうべき絆を感じたからだった。
きちんと手順を踏んで、彼女の前にたちたいという気持ちに決心がついた。
ちょうど朝焼けが消え去り、やがて太陽が水平線上に現れた。薄い靄は薄れ消え、ベリアの街に光が射し始める。
振り仰げば、シスの城壁に夜通し守備についていた兵士の交代する姿が見える。
ベリアの早朝の物音が響き始め、やがて街全体が春の訪れを待ちわびたかの様な喧騒に包まれる。
ゲオルグは外庭に2頭立て馬車が引き回されるのに気づき、窓を閉めた。