第8話 面影を追って
朝靄が空気の中に残っている気がした。
館の食堂では、ジョージが火を起こしている。
焚き火ではなく、小さな調理用の火床。
その上でお湯が沸いていた。
鳥のさえずりと、薪の爆ぜる音だけが耳に心地よく届く、穏やかな朝の時間。
昨日の出来事から一晩中考えていた事を、彼にしっかりと説明しなければいけない。
そう、意を決して声をかける。
「ジョージさん」
振り返った彼の顔はいつも通り穏やかだった。
「昨日は妙な事を言ってしまい、ごめんなさい。私.....貴方のことを見ながら」
上手く言葉が出ない。
けれど、どうしても伝えたかった。
「.....夫の面影を重ねていたんです」
ジョージは、少し目を見開いた。
「夫?」と小さく問い返してくる。
きっと、私の姿が"幼い少女”に見えるからだろう。
それでも、ハッキリと頷いた。
「はい、私の名前は“伊原絢子”と言います。夫とは見合い結婚で、とても幸せだった。けれど、たった二年で......彼は病気で亡くなりました」
声が少し震える。
「ジョージさんの背中が、時々夫に見えて......。勝手に思い出していたんです。でも、それは私の一方的な投影だった......」
涙が溢れて、言葉が詰まる。
それでも──
「命の恩人なのに、貴方自身を見ようともしなかった。それが......ずっと申し訳なくて。本当に......ごめんなさい......」
少しの沈黙が流れる。
ジョージはゆっくりと頷き、それから私の目を真っ直ぐに見て、優しく笑った。
「その言葉.......。旦那さんが聞いたら、さぞかし嬉しいだろうな」
「そうでしょうか......」
「ああ、きっと.......。人は誰しも、恋しい人を思い出すものさ。似ているなら尚更だろう」
「でも!私は貴方に失礼を......」
「気にする事はない。君はちゃんと、謝ってくれたじゃないか。俺はそれで十分だ」
── 胸の奥に残っていたわだかまりが、解けていくのを感じた。
彼に"許された”から、というだけではない。
誰かに言葉にしたことで、ようやく、自分自身を納得させられた気がしたからだ。
ごめんなさい.....龍司さん。
あの頃、本当の事を言えなかったこと。
過去に縋って.......。
目の前に居た、貴方自身を見ようとしなかったこと。
いくつも重ねてきた後悔が、少しだけ晴れた気がした。
もう、貴方を引きずらない。
けれど、決して忘れはしない。
貴方が側にいてくれた時間は、今でも確かに、私の中にある。
だから私は、前に進める。
「ありがとうございます。ジョージさん」
涙を拭い、ようやく安心して息を吸う事が出来た。
ジョージは黙って、お湯が入ったポットを持ち上げる。
「ほら、紅茶くらいは入れられるぞ」
「……いただきます」
彼なりの気遣いに、心が救われる思いがした。
♢♢
紅茶の湯気がゆっくりと立ちのぼる。
静かな空間で、私はもう一度深く呼吸をした。
これで……良い。
ようやく、心の奥底でそう思えた。
「少し、歩いてきます」
そう、ジョージに告げて小屋を出る。
朝露を含んだ草の匂いが、ほんのりと鼻をくすぐる。
無意識に足が向かったのは、村の丘の小道だった。
そこは、時折ルーカスが一人で佇んでいた場所。
“あの夢”を見て以来、何処か彼を遠ざけようとしていた。
(でも……今ならきっと、向き合える)
チュピィィィ……。
不意に、どこからか小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
空を見上げると、白い鳥が一羽、ゆっくりとこちらへ舞い降りてくる。
(綺麗……)
近くで見ると、それは明らかに、普通の鳥とは違っていた。
羽根はガラスのように透明で、光をまとった幻想的な鳥。
そのくちばしには、一片の小さな紙切れが挟まれている。
まるで差し出すかのように、鳥は私の目の前で羽ばたいていた。
少し戸惑いながらも、手を伸ばすと──
指が触れた瞬間、鳥はそっと光に変わって消えてしまった。
小さな紙切れだけが、手の中に残る。
それはルーカスから届いた、小さな手紙だった。
短く、一行だけ記されている。
【君が呼んでくれるのを待っている】
その言葉が、胸の奥に静かに届く。
温かくて、でもどこか寂しくて。
それでいて……優しかった。
「ルーカスさん」
思わず彼の名を呼ぶと、風が一度だけ、枝葉を優しく揺らす。
彼に向き合う決心がついたこと……。
それが今の私には、何よりの一歩だった。
絢子さんの本名がようやくでましたね。
伊原絢子(旧姓:白崎)さんです。




