第7話 二つの光
何処からか、風の音がする。
草の匂い。
木々のざわめき。
どこか懐かしい……“知らない”場所。
そんな感覚だった。
「あら、気がついたのね」
── その声に、僕はゆっくりと顔を向ける。
そこには、白銀の髪を持つとても綺麗な女の人が立っていた。
淡い光をまとったような佇まい。
でも……その瞳の奥には、わずかな警戒と不安が揺れていた。
「貴方、巡礼の森に落ちてきたのよ。かなり深いところだったから……もう助からないかと」
(巡礼の……森?)
初めて聞いた筈なのに、何処で聞いたような気もする。
「名前は?」
首を振る。
喉が痛んで、声が掠れる。
── 僕に関する、何もかもが思い出せない。
けれど、心の奥で一人の名前だけが、微かに響いてきた。
“あやこ”
その名前が浮かんだ瞬間、酷く胸が痛んだ。
涙が勝手に溢れて、止まらない。
「あらあら……。大丈夫よ、ゆっくりと思い出していけば良いわ」
白銀の女性──
リュシアさんは、僕の背を摩りながら、ただ静かに呟いた……。
そうして、彼女の庇護の元で過ごす生活が始まった。
♢♢
不安定だった僕の魂も、長い時間を掛けてこの世界に馴染み始めた。
自分の名前や、“前世の記憶”もようやく取り戻した。
だが、それは別の苦しみを生んだ。
「絢子に会いたい……」
もう既に僕は死んでしまったのだ。
彼女との再会を果たす事は叶わず、もう二度と側に居る事すら叶わず、恋しさだけが募る。
そんな絶望感に耐えきれず、何度も消えてしまおうとした。
だが、その度に絢子の「忘れないでね」という言葉が脳裏をよぎる。
(そうだ……”約束“したんだ)
どんなに姿形が変わろうととも、絢子の優しさと笑顔だけは忘れない。
これがあればきっと……彼女をもう一度、見つける。
きっと、今も昔も変わらない。
絢子だけが、僕の唯一の”生きる意味“なのだから。
そんなある晩。
「シロ。貴方のことを、法王庁に報告しなければならないの」
彼女は。確かにそう告げた。
「えっ?何で……急にそんな事を言い出すんですか?」
「貴方の願いは強すぎる。あまりに強い未練は、この世界の理を乱してしまうのよ……」
どうやら彼女は、僕の魂に宿る“異質な熱”を感じ取っていたようだ。
死者が本来持つはずのない、強い執着。
それは、この世界の理を乱しかねない“危険な兆候”だったのだ。
翌日。
館の前には法王の使者達が、迎えに来ていた。
彼等は優しい口調で、僕に語る。
「君は、ただ忘れればいい」
「記憶なんぞ、痛みの元だ」
「全てを忘れ、“新しい命“として生まれ変われば、きっと幸せになれる」
── 忘れろ?
違う!
僕は忘れたくない!
“絶対に忘れない”って、約束したんだ。
その瞬間、僕の中で何かが弾けた。
封じられていた“熱”が、青い光となって、魂の奥底から溢れ出す。
「いやだ……忘れるなんて──ッ!」
声が震える。
涙が止まらない。
脳裏に浮かぶ、絢子の笑顔、声、最後に交わした約束。
僕が忘れてしまえば、全てが嘘になる。
絢子との約束を、僕自身が裏切ることになる。
「忘れられる訳がないだろ──ッ!!たとえ、全てを失っても!!」
叫んだ瞬間、身体が光に包まれた。
全身の痛みと共に、魂の形が歪に曲がっていくのを感じる。
使者たちが、次第に顔を曇らせていく。
「輪廻の外に出たか」
「あぁ……もう“人間”ではないな。だが、彼の意志は理を越えた」
「何という失態だ!これでは、リュシアの二の舞ではないか」
髪や耳が、次第に伸びていく。
肌が透き通るように白くなり、瞳が深い光を宿す。
記憶を守る為に。
たった一つの約束を守る為に。
僕は人間を捨てて──
“輪廻の輪”から外れた。
「シロ……。貴方、もう帰れないのよ」
側にいたリュシアの声は、悲しみに満ちていた。
でもその中に、誇りにも似た響きがあった。
僕は、静かに頷く。
それでも良い。
たとえ、この世界に永遠に留め置かれる事になっても。
この記憶を手放さない限り、僕は僕のままでいられる。
── そう信じていた。
リュシアはしばらく黙っていたが、やがて静かに言葉を紡いだ。
「なら、あなたはもう”人間“ではいられないわ。だから……“新しい名”が必要になる」
僕は、ゆっくりと彼女を見つめた。
「“ルーカス”【光】という意味よ。私の“リュシア”と、同じ意味を持つ名前」
“ルーカス”
その響きは、不思議と心の奥に優しく染みわたっていった。
まるで暗闇の中に差し込んだ、一筋の希望のように。
僕は小さく息を吐いて、その名を口にする。
「……ルーカス……」
それは、人間としての生と引き換えに得た、“新しい存在の証”。
たとえ、地球に戻れなくなるとしても。
この記憶と願いを抱いたまま、僕はこの世界で生きていく。




