第6話 消えない約束
遠い……幼い頃の記憶……。
孤児だった僕には、名前がなかった。
出自も、両親の顔さえもわからない。
行くあてもなく彷徨い続けて……気が付けば、村の外れで野良犬に追われていた。
泥と血にまみれ、死の恐怖に震えていた時。
救ってくれたのが……絢子だった。
小さな手で、怖がることもなく。
僕の手を握ってくれた。
「大丈夫よ。私が一緒にいるからね」
たったそれだけの言葉なのに……。
凍えていた心が、溶けていくようだった。
その後──
ほんの数日だったが、彼女の祖父と一緒に暮らした。
屋根のある家。
温かい食事。
誰かの笑い声。
“シロ”という、人生で初めて貰った名前。
絢子といる時だけは、僕は心から笑う事が出来た。
それは、夢のように幸せな時間だった。
けれど、そんな生活がずっと続く筈も無い。
「ほらあの子。どこの子かも分からんとなると、村としてもねぇ……」
「食糧も足りないしな」
得体の知れない僕を、遠巻きに眺めつつ……囁き合う村人達の声が、耳の奥に焼きついている。
「おじいちゃん。どうしてシロくん、行っちゃうの?」
絢子は泣きそうな顔で、祖父の背中を見上げていた。
「しかたねぇんだ、絢子」
その声は静かで。
でも、どこか苦しげだった。
「シロの身元は誰にもわからん。戦時中だ……正体のわからん子供は、もう村には置いておけねぇ」
「やだ……。そんなの、やだよ……!」
── そんな二人の会話を、僕は居間の隅でじっと聞いていた。
親切な村人が用意してくれた、必要最低限の衣服。
それだけが、唯一の荷物だった。
僕は何も言えず、ただ小さく俯いていた。
おじいさんの言葉が、全て分かっていた訳では無い。
でも、胸の奥がぽっかりと空いてしまったような感覚だけは、ハッキリと分かった。
それでも──
「ねぇシロくん。どこに行っちゃうの?」
「わからない。でも、ここにはもういられないって……おじいさんが」
やっとのことで絞り出した声は、酷く掠れていた。
「また会えるよね? 私ね、ずっと待ってる。シロくんのこと、絶対に忘れないから」
「うん。僕も、絢子ちゃんを絶対に忘れないから」
小さな指を絡め合って、指切りをした。
── それが、僕らの最初で最後の約束になった。
僕は、泣きながら何度も振り返った。
彼女もまた、僕の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。
あの約束は今でも、僕の記憶の中に鮮やかに焼きついている。
その後、僕は東京の養護施設に送られた。
けれど僕の状況は、さらに悪化していった。
空襲の夜。
あの施設は、他の孤児たちと共に──
跡形もなく崩れ去った。
── そして、僕は命を落とした。
それでも、魂だけはまだ。
あの“約束”を手放すことができなかった。




