第5話 小さな手の記憶
※この作品はフィクションです。
実在の人物、団体、宗教などとは関係ありません。
朝靄の残る庭。
淡い日差しが優しく照らし、鳥のさえずりが微かに聞こえる。
そんな場所で、絢子は目の前の温かいスープに手を伸ばす。
スープを口に運ぶと、香草の香りがふわっと広がり、体の奥がじんわりと温まっていく。
「味はどう?」
リュシアが静かに問いかけた。
「美味しい……。初めての味なのに、どこか懐かしく感じます」
絢子の言葉に、リュシアは穏やかに微笑む。
「魂の記憶は、時に味覚や匂いにも刻まれるの。たとえ理性が覚えていなくても、心が先に思い出すことがあるのよ」
「魂の記憶……ですか?」
「ええ。本来なら魂は死後に記憶を失って、この世界に生まれてくるの。そして、長い時を経て、また地球へと生まれ変わる。その中で、魂はいくつもの記憶を積み重ねていくのよ」
「あの……。この世界は、一体どこなのでしょうか?」
「そうね……あなたたち人間が“天国”と呼ぶ場所かしら」
リュシアはテーブルに置かれた白いティーカップの縁を、そっと指で撫でる。
── その指先が小さく震えていた。
「でも、全ての魂が“理”に従ってここへ来るわけじゃないの」
「……え?」
「強い未練を抱えた魂は、理から外れることがある。そうした魂は、本来の流れから逸れ、記憶と姿を保ったまま、この世界に現れるのよ」
「強い未練が、私の中にあると……?」
リュシアは静かに頷いた。
「ええ。あなたは誰かへの強い想いを胸に、この世界へ来た。記憶は失われていても、魂はその願いを忘れていなかったのね」
絢子は言葉を失った。
けれど、心の奥で確かに何かが脈打っていた。
「ルーカス……彼も?」
「彼もきっと同じ。だからこそ、あなたを“呼んだ”のだと思うわ」
「でも……魂が理から外れるのは、いけない事なのでは……」
「いいえ、必ずしも悪ではないわ。誰にだって未練はあるもの。ただ、理に背いた魂は不安定で、強すぎる感情はやがて理さえも歪めてしまう。だからこそ危ういの」
「そうやって……堕ちていく人も?」
「……悲しいけれどね。だから私は見守る必要があるの。魂が壊れないように。そして“本来あるべき場所”へと還れるように」
リュシアの声は、深い祈りのように響いた。
── そのとき、ふと風が吹き抜けた。
どこか遠くで、鈴のような音がかすかに聞こえた気がした。
絢子は、ゆっくりと息を吐く。
「……私、また思い出せるでしょうか」
「ええ、きっと。魂がある限り、決して“無かったこと”にはならないわ」
その言葉に、絢子は静かに頷いた。
◇◇
昼下がり。
館の庭に出ると、ジョージが剣を振っている姿が目に入った。
黙々と構え、振り、踏み込み、引く。
その一連の動作は、まるで舞のように静かで力強い。
「こんにちは」
思わず声をかけると、ジョージが動きを止め、振り返る。
「調子はどうだ?」
「おかげさまで。体も楽になりました」
「それは良かった」
短い会話。
しかしその間にも、絢子の胸に切なさが込み上げてくる。
ジョージの姿を見る度に、龍司の面影がよぎるのだ。
「……誰かに似ているって、言われませんか?」
「たまに。けど、よくある話さ」
それだけ言って、ジョージは再び剣を握る。
その背を見つめながら、絢子は心の中で言葉にできない思いを整理しようとしていた。
(……ただ、ジョージさんに龍司さんの面影を重ねているだけ……)
◇◇
その夜。
絢子は、妙に鮮明な夢を見た。
幼い頃の自分。
田舎の農道。
夕暮れ時。
傍には祖父がいて、どこかへ向かっている。
その道の脇で、野良犬に襲われ泣いている少年がいた。
傷だらけの身体に、足には噛まれた跡。
まだ、4歳ぐらいだろうか。
「おじいちゃん、あの子!」
「── おい坊主!じっとしてろ」
祖父が犬を追い払い、幼い自分が手ぬぐいを取り出して、少年の足にキツく巻く。
震えていた少年が、はじめて顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになったその顔に、淡い色の瞳が印象的で……。
「大丈夫よ。私が一緒にいるからね」
そう言って、幼い自分が手を握る。
「家に帰ったら遊ぼうね」
その言葉に、少年が微かに笑った。
── そこで、夢は終わった。
◇◇
夢からゆっくりと目を覚ます。
肌寒さに気づいて窓の外を見ると、そこにはルーカスが立っていた。
彼の顔を見た瞬間、胸がざわつく。
記憶はまだ曖昧だけれど、どこか懐かしい気配が確かにあった。
絢子は夢の残り香のように呟く。
「貴方が……あの子なの?」
その言葉を聞いたルーカスの瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「良かった……」
ルーカスは答えない。
けれど、その瞳が全てを語っていた。
── そのとき
「ルーカス!」
リュシアの声が鋭く響いた。
部屋に入ってきた彼女は、すぐさま絢子の前に立ちふさがる。
「言ったはず。魂に干渉するなと」
「彼女が思い出したんだ。なら、僕の言葉が必要だと思った」
「今の彼女はまだ不安定なの。あの頃の記憶は“鍵”でもあるけれど、“鎖”にもなるのよ」
ルーカスは一瞬だけ目を伏せ、再び絢子を見た。
「ごめん。また、話せる時が来たら」
そう言い残し、彼の姿は月の光と共に、消え去った。
◇◇
「彼が……私を……呼んだ?」
ベッドに戻った絢子の問いに、リュシアはそっと頷いた。
「なぜ……?どうして、そこまで……」
「それはきっと、貴女自身が知っている。忘れてしまっただけで」
リュシアはそう言い、優しく絢子の髪を撫でた。
── その後
絢子は、静かな部屋で深く息を吐いた。
見た夢があまりにも鮮明で、現実の出来事のように胸に残っている。
(てっきり……あの子は龍司さんだと……)
胸の奥にじんわりとした痛みが広がる。
あの頃──
疎開先の田舎で出会った少年。
絢子がまだ小学校にも上がる前。
野良犬に襲われていたその子を、祖父と一緒に助けたことがあった。
血を流し、怯え、言葉も碌に話せない少年は、しばらくの間、絢子と一緒に祖父の家に住んでいた。
貧しい生活の中でも、祖父は村長に頭を下げて衣食を用意し、少年が回復するまでの数日を過ごさせたのだ。
「お名前は?」と聞いても、少年は首を振るだけだった。
けれど、日に日に表情を取り戻し、笑うようになった。
その笑顔があまりにも幸せそうだったから。
── 絢子はずっと……あの頃と同じように笑う、龍司との幼い頃の記憶だと信じていた。
(……違ったのね……)
窓辺に座り、夜風に髪を揺らしながら、絢子は静かに瞼を閉じた。
心の中で、何かが崩れる音がする。
思い出に縋っていたのは、自分の方だった。
「忘れないでね」と約束した、あの日の手の温もり。
あれは……龍司ではなかった。
(私は……)
ルーカスのあの眼差し。
初めて出会った時から、なぜか目を逸らせなかった理由が、今なら分かる。
ルーカスと龍司の姿をすり替えて、龍司にルーカスの面影を重ねていただけだった。
自分にとって、都合が良いように。
あまりにも身勝手で愚かな行為に、涙が溢れて止まらない。
「本当に……ごめんなさい……龍司さん」
── それは、もう二度と会えない。
亡き夫に対する、心からの謝罪だった。




