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第22話 春の妖精

夜明け前の空はいつも曖昧で。

まだ星の名残を抱いたまま、光になることをためらっている。


机に向かい、羊皮紙を一枚めくる。


無数の名前と生年月日。

誰が生まれ、誰と出会い、何を選び、どこでその生涯を終えたのか。


感情は添えずに。

ただ、事実だけを残す。


そうして、絢子は今日もまた──

見も知らぬ“誰か”の人生を記していく。


それは義務でも、救済でもなく。

言わば、ただの日記。

誰にも読まれる事は無い。


それでも、この理の中に──


世界に“在った”という事実だけは、残しておかなければならなかった。


棚の最上段。

そこには、古い記録簿が三冊並んでいる。


【ジョージ】【リュシア】【ミレイユ】


それらに、新しいページが増える事は二度と無い。


彼等が去ってから、随分と時が流れた。

悲しみは、とうに形を変えている。


それでも。

その棚を見つめる度に、寂しさが込み上げてくる。


棚の中には一箇所だけ、不自然な間があった。

絢子はなるべくそこを見ないようにして、ペンを走らせる。


ルーカスの記録簿は、作らないと決めている。


もし作ってしまえば、彼が「消滅した」という事実を、“理”が完全に固定してしまう気がした。


絢子はそっと帳面を閉じ、椅子から立ち上がる。


窓の外では、塔の鐘が高く響く。

朝を告げる音。


深く息を吸う。

懐かしさにも似た感覚が触れた気がしたが、追いかけはしない。


「今日も静かね」


誰にともなく呟き、窓辺に近づく。


「……ッ」


突如、右手が震えた。

視界に走る、激しいノイズ。


脳の奥深く。

”理“と繋がった部分が、警報を鳴らしている。


そのとき──


チュピィィィ。


── それは

脳を揺さぶる程に、懐かしい音。


白い影が、ゆっくりと窓枠に降り立つ。


「──ッ!あなた……」


絢子は信じられないというように、目を見開く。


その姿はあまりにも異様だった。

羽は濁り、輪郭が小刻みに震えている。

まるで、実体を持たない映像が乱れているかのように。


「まだ……残っていたと言うの?」


胸の奥が、ひくりと痛む。

あり得る筈が無い。


あの浄化で、全ては断ち切られた筈で──

彼が亡くなってからは、一度も現れる事などなかった。


絢子はゆっくりと手を伸ばす。

指先が羽に触れた瞬間、微かな音が流れ込む。


懐かしい感触。

間違えようのない、ルーカスの声。


「……どうして……」


言葉が、掠れる。


それは意思を持たない残滓。

呼ばれもしないのに、ここに在ってしまったもの。


鳥は小さく羽を震わせ、絢子の手のひらに乗る。

その重みが、余計に現実感を伴った。


「……あなたも、取り残されてしまったのね」


驚きは、すぐに恐れへと変わる。


残留が偶然ではないのなら。

これは“記憶”でも“意志”でもない。


それでも──

彼の魔力は“絢子”を探している。


「……そんなはず……」


喉の奥で、声が途切れた。


『この世界の魔法は、術者の“願い”が形になったもの。この鳥も、君の心に届くようにと僕が作ったんだ』


かつてルーカスが語った言葉。


魔法として形作られた彼の“願い”が──

いまもまだ、世界のどこかで息をしている。


その事実だけが

残酷に胸に沈んでいった。


♢♢


ピィィィ


「──!あぁ、ごめんなさい。気がつかなくて」


しばらく考え込んでいると、不意に手を嘴で突かれた。


人の言葉を持たない筈の嘴。

だが、まるで怒っているかの様なその態度に、慌てて意識を戻す。


その瞬間。


鳥は羽を広げ、ふわりと宙に舞った。

その嘴から、白いものが絢子の手に零れ落ちる。


かすかに光を帯びたそれは──

花の形を成していた。


細く柔らかな花弁。


「……そんな……」


遠い記憶の片隅に、微かに残る花。


『おじいちゃん見て!!他はみんな紫なのに、この花だけが白いのよ!』


『ほぉ……俺も実物を見るのは初めてだ。絢子、それは滅多に咲かねぇ色なんだ。見つけると幸運をもたらすとも言われてるんだぞ』


『わぁ〜素敵ね!そうだ!!おじいちゃんはここで待ってて、シロくんも呼んで来るから〜』


『あんまり走って、転ぶんじゃねぇぞ〜』


『はーい』


涙が溢れて止まらない。


幼い頃に一度見たきり。

次の日には枯れてしまった──

あまりにも儚い“春の妖精”。


「冗談でしょう……」


白い“カタクリ”の花が、そこにはあった。


「ありえない。まさか……あなた……」


この異世界にも花は自生している。

ただ、カタクリのように珍しい形の花を、絢子は一度も見た事が無い。


ましてや白いカタクリの花など。


「……」


鳥は花を落とすと、それ以上何もせずに羽を畳んだ。

まるで役目を終えたかのように絢子を見据え、瞳の奥では金色の光が弱く脈打つ。


「証明して見せたということなのね……。世界を……渡れるのだと」


白いカタクリの花は、雲を掴むように重さがない。

だが、確かに指に触れている。


返すべきだ。

理に沿えば、それが正しい。


この花は、本来この世界のものではない。

鳥が運んできたとしても、それは偶然ではなく、明確な“干渉”とみなされる。


絢子は一度、花から手を離しかけ──

止めた。


それを机の端にそっと置く。


その瞬間──


木の天板がわずかに波打ち、色が抜けたように白く変質した。


「──ッ!」


境界に触れた存在が、音もなくこの世界を侵し始めている。


似た感覚を、絢子は覚えている。


かつて一度だけ。

異界の魂が理を擦り抜けた時も、世界は音を立てていた。


(あの頃の私も……こんな感じだったのかしら)


花はただ置かれているだけなのに、視線を逸らすと輪郭が曖昧になる。

見ていなければ、最初から無かったかのように。


“存在が安定していない”


ここにあるべきではないものが、無理やり留まっている。

その不自然さが、言葉になる前に理解へと変わった。


── 誰かが、越えた。


絢子の喉が、小さく鳴る。


偶然では起こり得ない。

願いだけでは届かない。


それでも強引に手を伸ばすような──

愚かで、執拗なやり方。


そんな真似をする存在を、彼女は一人しか知らなかった。


「馬鹿ね……」


責めるような響きにはなりきれず。

叱るような言葉は、ひどく優しかった。


光を帯びた花弁は、今にも崩れそうなほど儚い。

それでも、消えずにここに在る。


このまま放置すれば、歪みは確実に広がる。


もう、彼はいない。

境界に触れた反動は、必ずどこかへ跳ね返る。


それが誰に向くのかを──

絢子はよく知っていた。


ゆっくりと目を閉じる。


懐かしさも、後悔も、胸を刺す痛みも。

全てを奥へ押し沈める。


「止めないと」


小さく呟き、再び目を開いた時には──

その色は静かに定まっていた。


「今度は私の手で……終わらせる」


白い鳥が、微かに羽を震わせる。


抗議するようにも、すがるようにも見えたが。

絢子はもう、迷わなかった。


窓の外では、朝の光が広がり始めている。


新しい一日が──

何事もなかったかのように、訪れる。


その静けさの中。

白い花だけが、異質な気配を放っていた。


それを見つめたまま、息を吐く。


(これが、最後の猶予よ……。ルーカス)


絢子の目は──

静かに感情を失いつつあった。

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