第21話 花の抜け殻
病院の廊下は、夜の空気を纏う様に冷たい。
歩くたびに靴音だけが響いて。
そのすぐ後ろを、恋人である美佳の足音が静かに寄り添って来る。
「ねぇ翔太。本当に痛むところはもう無いの?」
「あぁ……大丈夫だから」
口ではそう言いながらも、胸の奥で何かがずっと引っ掛かっていて。
彼女の手を握り返せないまま、病院の出口へと向かう。
美佳は歩幅を合わせつつ、時折こちらを見上げては視線を逸らしていた。
「まだ……あの白い花の事、怒っている?」
「えっ?」
不意に切り出された話題に、思わず足を止める。
「私が枯らしちゃったからだよね」
“白い花”
それは、あの非常階段で起きた事故の際に手元にあった一輪の花。
自分は確かに意識を失った筈だが、搬送中も握って放そうとしなかったらしい。
『看護師さんが保管しておいてくれたの。綺麗だけど、あまり見かけない形の花だね』そう言って、美佳が差し出そうとした花は──
パキッ……と乾いた音を立て、花弁や葉が崩れ落ち。
まるで地面に溶けていくかの様に、跡形も無く消えてしまった。
「別に……俺は気してないから。無くなって、困る物でもないし……」
「気にしてないなんて嘘……。翔太のあんなに悲しそうな顔、私見た事無いよ」
あの時。
美佳の困惑をよそに、自分は砂が消えた場所を凝視していた。
その“消え方”が、得体の知れない既視感と喪失感を伴っていた事を思い出す。
「まっ……まぁ!!俺が花なんて柄にも無いって事だろ、きっと。どうせいつかは枯れるんだし、怒っているとかじゃ無いから、気にすんなって!!」
「うん……本当にごめんね。もしお店とかで見つけたら、いっぱい買ってくるから」
どこか気まずい雰囲気が流れる。
お互いに無理にでも笑おうとして、上手く形にならなかった。
「でも!!本当に心配したんだからね。メッセージを送っても、既読にならないし……電話も出なくて……。そしたら、翔太の会社から倒れたって連絡が来て……」
怒っているようで、どこか泣き出しそうなその表情に、申し訳なさで胸が痛む。
「具合が悪い時にはちゃんと頼って……お願い。
翔太のお父さんとお母さんも、きっと天国で心配しているよ」
「……あぁ。ごめんな、心配かけて」
美佳は小さく首を振り、そっと手を握ってきた。
「謝らないで。ただ、無茶だけはしないでね」
自分の手を包む温もりが、ようやく自分が地に足をつけて居る事を思い出させてくれる。
おもむろに街灯の下に立つ──
光が二人を重ね。
足元に一つの影を落としていった。
♢♢
「翔太ってさ……ひとりっ子だったよね?」
「ん?そうだけど。急にどうした?」
あの後。
家には戻らず──
ホテルで睦言を交わしていると、不意に美佳が話題を変えてきた。
「翔太が入院している時、うわ言を聞いちゃって……知らない女性の名前だった」
「え!?」
「響きだけで涙が出るくらい……切なくて。疑いたくは無いけど、正直怖かった」
美佳の声は刺すような鋭さは無い。
だが、それが返って深く心を突き刺してくる。
確かにあの少女が心残りで。
だが、その名前を思い出そうとする度に──
靄がかかる様に消えてしまう。
「有耶無耶にはしなくない。ねぇ、他に好きな人が居るの?それとも元カノさん?
一体誰の事を……そんなに想っているの?」
呼吸がだんだん浅くなる。
追いかけているのは誰だ──
失ったのは何だ──
どうして、こんなにも胸が痛むのか──
「私ね、翔太が好きだよ。でも、付き合っているのに心が向いてくれ無いなんて……凄く虚しい。それなら、片想いでいる方がよっぽど良い」
美佳の言葉の端々が震えている。
「俺さぁ……多分……」
続きの言葉が喉まで出て、止まった。
それでも彼女は待つ。
責めず、急かさず、ただ静かに。
だからこそ、妙に気が焦る。
「ごめん……まだ分からないんだ。自分の中でも説明がつかなくて」
「うん……」
「だから、もう少しだけ待って欲しい。美佳をこれ以上疑わせたくはないから……」
重い沈黙が流れる。
それでも、美佳は手を離そうとはしなかった。
「……分かった。ちゃんと証明してみせてね」
「俺は一途だぞ」
言葉に嘘偽りは無い。
だが、彼女一筋だと言い切る自信もなかった。
胸に残る白い花の香りが、まだ微かに残っている。
「ねぇ……今日は繋いだままでも良い?」
「……あぁ」
その声は無意識に出た。
繋いだ手の温度は確かに暖かいのに、その裏側で感情だけが冷えていく。
手からすり抜けていった少女の輪郭。
呼んだはずの“名前”。
恋人は確かに隣にいる。
それなのに──
何か大切な存在が欠けているようだった。
♢♢
「そういえば、俺が呼んでいた名前ってなんだったんだ?美佳が知らない人なんていたか?」
ホテルの帰り道。
ふと、引っ掛かっていた疑問を思い出した。
「んーとね……ハッキリ聞こえた訳じゃないんだけど。“あやこ”って……知っている人?」
「えっ……」
思わず荷物が手から落ちる。
慌てて拾おうとしても、足が固まって動かない。
見知らぬ名前。
それなのに、視界が次第に滲んでいく。
問い返そうとしても、声にならない。
「翔太? 急にどうしたの?」
「わからない……でも……」
脳裏に誰かの残した声が響く。
──会いたい。
そのひと言だけが寂しく響く。
誰に?
何のために?
どうして涙が止まらない?
答えはどこにも無い。
“あやこ”という名前だけが──
無くした筈の何かに触れ、確かに心を震わせていた。




