第19話 夢の残響
誰かが、目の前に居た。
木漏れ日に揺れる道を、その人はいつも迷いなく進んで行く。
訳も分からず。
その背中に何度も声をかけるが、決して振り向くことは無い。
分厚いコートを羽織り、フードで表情も全く見えないが。
不思議と恐怖は感じなかった。
どうしてその背中を追い続けるのかは──
自分でも分からない。
やがて森を抜けると、ひとつの古びた洋館にたどり着く。
館の向こうには、花々が咲き誇る庭や石畳の道が見える。
その風景に目を奪われていると。
目の前に居た人は、いつの間にか姿を消していた。
(ん……?何処に行った?)
思わず扉の方を見ると──
不意に、胸の奥に焦燥が走った。
(もう少しなんだ!!間に合ってくれ──!)
脳裏に聞き覚えのない“必死な声”がよぎる。
自分の意思とは関係なく。
扉へと手が伸びかけて──
目が覚めた。
薄いカーテン越しに、朝の光が滲む。
天井の染みを見つめるうちに、夢の景色が乾いて剥がれ落ちていく。
「またかよ……」
子供の頃から繰り返し見る夢──
それはいつも、扉が開かれる直前で途切れる。
身体が重いまま、枕元のスマホに手を伸ばす。
画面には、同期である志野からのチャット履歴。
《おい早瀬!今日の会議8時からになったぞ。絶対寝坊すんなよ!!》
「はぁぁ……」
思わずため息が漏れる。
いまの仕事は、嫌いではない。
職場の人間関係も、割と良好で。
大学の頃から付き合っている彼女もいる。
それなりに充実した生活を送れている筈で──
決して、孤独という訳ではない。
それなのに。
胸の奥では説明しきれない”寂しさ“が、いつも付き纏う。
「ひっでぇ……顔」
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこには──
瞼が赤く腫れ、頬に涙の跡が残る自分が映っていた。
昨日は、特に落ち込むような事も無かった筈で。
どうして泣いていたのかも、思い出せない。
(やべぇ──!遅刻ギリギリだ!!)
時計は7時15分を指している。
慌ててネクタイを結びながら、ふと机に視線をやる。
一冊のスケッチブック。
そこに描かれているのは──
夢に現れる、古びた洋館。
「また描いてたのか?俺……」
そう呟いた声は、やけに遠くまで響いていった。
『駆け込み乗車はおやめ下さい。次は快速──』
窓に映る自分の顔はどこか他人の様で。
晴れの予報とは裏腹に、空はぼんやりと灰色に濁っている。
夢で見たあの濃い緑とは、まるで違った。
刻一刻と勤務先のビルが近づく。
改札を抜ける度に、心の中の“何か”が遠ざかっていく気がする。
(仕事だ……。現実を見ろ)
自分に言い聞かせるように、スマホをポケットへしまう。
だが、歩き出すその足裏には──
夢で踏んだ柔らかな土の感触が、確かに残っていた。
♢♢
「本案件における進捗といたしましては、開発フェーズは予定通り進めております。しかし、二点ほど問題が発生し──」
昼過ぎにまでもつれ込んだ定例会議。
寝不足も相まってか、いまいち会議に集中できず。
つい、窓の外を眺めてしまう。
随分前からだろうか──
一羽の白い鳥が、ビルの合間をゆっくりと旋回している。
白鳥やシラサギなどとも違う、不思議な鳥。
自分の目には一瞬だけ、その翼がガラスのように透明に見えた。
「……ん?」
しかし、瞬きをした途端──
翼は何事も無かった様に、元通りになっていた。
(何だ、いまの?)
思わず前のめりになって、窓を凝視してしまいそうになる。
「──ぇ。早瀬──!お前の番だそ」
「あっ……。すみません!」
上司の声に、慌てて意識を引き戻す。
「ほ……本件における進捗ですが、二点ほど問題が発生しており」
「ちょっ!しっかりしろよ早瀬。それはさっき、俺が言ったばっかりだろ」
「え?あぁ……すまん」
「……早瀬くん。最近の君は少々目に余る。社会人の自覚が無い者に、プロジェクトリーダーは任せられない」
同期達や上司からの冷たい視線が突き刺さる。
あの夢を見る度、確かに勤務中の集中力を欠いていた。
専務の指摘も当然だ。
「申し訳ありません……」
「社長とも話し合うが、今案におけるプロジェクトリーダーは志野くんに変更だ。志野くんは発表を続けるように」
「えっ!あぁ……はい。
「……」
(一体、いつまでこんな事が続くんだ)
あの館に囚われ。
夢の中から永遠に抜け出せない恐怖に襲われる。
だが、何処か心の奥底では──
『それでも良い』と思う自分がいた。
──その夜。
ビールを片手にスケッチブックを開く。
そこには、いつもと変わらない絵。
だが今日は、館の前に一人の“少女”が、身に覚えのない筆致で描き足されていた。
「──!いつの間に」
線に乱れているところは無い。
むしろ、いつもの自分よりも丁寧に。
愛おしそうに描かれている。
けれど、少女が館を見上げるその姿は──
酷く悲しげだった。
♢♢
眩しさに思わず目を開る。
(背中が痛ってぇ。また床で寝落ちか……?)
思わずため息をつきかけて──
身体が固まる。
辺り一面が石造りの壁。
廊下の壁には、数枚の古い肖像画。
その中の誰もが、息をしているかの様に見えて。
コン…コン…コン
「──ッ!?」
肖像画を眺めていると、誰かが扉を叩く音が聞こえてきた。
ゆっくりと扉に近づき、そっと覗き窓から外の様子を伺う。
そこには。
夢と同じ、あの分厚いコートを羽織った──
もう一人の“俺”が立っていた。
「頼む!!開けてくれ──。このままだと、本当に間に合わなくなるんだ!!誰か開けてくれ──」
その声は確かに、自分のもの。
だが、覗き窓から覗いているのも“俺”だ。
思わず首を横に振る。
「駄目だ。いま開けたら、全てが……」
(あれ?何で、勝手に声が……。それに、ここを開けたらからって、何になるって言うんだよ?)
ドン──ッ
無意識に、扉を開かせまいと抵抗する。
すると、今度は扉に体当たりをするようになってきた。
壁が震え、空気が揺れる。
(まずい──!入ってくる!!)
あまりにも得体の知れない恐怖に、一瞬手を離した瞬間──
パリン──ッ!
ガラスが割れる音が響いた。
強烈な光が溢れ、視界が反転していく。
「くっ──ッ!」
しばらくして、光が収まる。
すると、いつも通りの“館の外”に立っていた。
館の中からは──
もう一人の自分が、こちらを無表情に見つめてくる。
(どっちが、本当の“俺‘なんだ?)
しかし、その答えが見つかる前に扉が閉まっていく。
「待ってくれ!まだ──」
閉じかけている扉に手を伸ばし、もう一度その館の中へ入ろうとして──
目が覚めた。
外はまだ夜明け前。
スケッチブックには、開かれた扉が描き足されている。
扉奥には、並び立つ二つの影。
思わず、その影を指でなぞる。
自分はとうとう、気でも触れてしまったのだろう。
その影をなぞる度に、訳もなく涙が溢れて止まらない。
(もう……何も考えたくない)
半ば自暴自棄のようにスケッチブックを閉じ、寝不足のまま出社の準備を始める。
カーテンがゆるやかに揺れ、光が少しずつ部屋を満たしていく。
それはまるで、普遍な日常が始まっていく合図のようだった。




