第17話 軋む音
空からは鮮烈な光が降り注ぎ──
法王庁を赤く染め上げていく。
(あれ……。もう……朝なの?)
涙が流れる感覚に目が覚める。
どうやら、昨晩のうちに客室へ戻っていたようだった。
昨日の余韻が色濃く残っているせいか、眠ったのかどうかすらも思い出せない。
(今日が来てしまった……)
体を起こした絢子の目に、燃えているかの様な赤い光が差し込んできた。
いままでの、穏やかな木漏れ日とはまるで違う。
その光は、この世界で初めて目にする──
朝焼けの空だった。
(あぁ……。今日はきっと、雨ね……)
光に吸い寄せられるように窓を開けると、冷たい風が頬を撫でていく。
その鮮烈な輝きは、確かに美しいはずなのに。
虚しさだけが込み上げて来る。
絢子にとってこれは、今日の“始まり”を告げる光ではなく。
ルーカスの“終わり”を告げる──
ただ、それだけの光にしか見えなかった。
(今日に限って朝焼けだなんて、皮肉なものね)
身支度を終え、次第に空が明けていくのを眺める。
彼の“死“を見届けるのは、自分の役目だと胸の奥で繰り返し言い聞かせる。
だが、足は震えていた。
何度も深呼吸をしても、心臓の鼓動は落ち着かない。
時折、廊下の遠い足音が響く。
音が近づくたびに絢子は必死に息を殺し、通り過ぎると僅かな安堵が生まれた。
だが、その安堵すら長くは続かない。
リィン……リィン……リィン
微かな鈴の音が近づき──
目の前の扉で鳴りやんだ。
「時刻となりました。処刑場へご同行を」
扉の向こうから響く声。
それは、もはや逃れようの無い現実への合図だった。
♢♢
目の前には石造りの部屋。
その先にある処刑場の入口を、衛兵が開けると。
そこは、中庭と呼ぶにはあまりにも、広大な空間が広がっていた。
観覧台の中央には法王が既に座し。
その隣に、空席が一つだけ用意されている。
「こちらへ」
衛兵の声に導かれ、絢子は抵抗もできずにその席へと連れて行かれた。
法王は絢子が隣へ座っても、視線を前へ向けたまま低く呟く。
「来たか。これもまた、理の均衡を守るための行い。今更抵抗したとて無駄だ、妙な気は起こさないように」
言葉は淡々としていたが、その一語一句が鋭い刃のように絢子に突き刺さる。
「はい……。分かっています」
絢子はただ頷くしかなかった。
だが、視線を前に向けたその瞬間──
息が止まる。
広場の中央。
黒鉄の十字架に、ルーカスが磔にされていた。
両手足を鎖で縛られ、足元には幾重もの魔法陣が刻まれている。
その姿は、もはやルーカスとしてではなく“罪”そのものとして晒されていた。
周囲には群衆が集められ、好奇や恐れ──
誰もが彼を“異端”として見ている。
人々のざわめきが波のように広がり、空気が重く揺れ動く。
「どうして、こんなに多くの人が……」
小さく漏れた絢子の声に、法王はあくまでも無関心そうに答えた。
「民は“正しさ”を信じ、この場所へと集う。“理”を乱した者の末路を見届ける為に」
「もし、“正しさ”がルーカスを罰する事だと言うのなら、その“理”はあまりに冷たすぎる」
「何だと……?」
「秩序を守るという名のもとに、誰かの心が踏みにじられていくのなら。 それは本当に“正しい”と言えるのでしょうか」
「……大局の前では、心情など全てが無意味となる。個の為に、全てを犠牲にする訳にはいかない事など分かりきっているだろう」
「えぇ!!本当に……法王様は“正しい”。
それでも、ルーカスは人の温もりを選んだ。その選択が、この世界にとっては罪だっただけ。そうでしょう?」
「そうだな。そなたの慈悲は確かに美しいが、ここでは無力でしか無い。随分と……皮肉なことだ」
法王の一言は無感情でありながら、何処か一抹の寂しを含んだまま。
ただ空へと消えていった。
♢♢
ルーカスはただ前を見据えている。
その顔には恐れや怒りなど、もう何処にも無い。
視線だけが、まるで“誰か”を探すように宙を彷徨っていた。
絢子は咄嗟に彼の瞳を追いかけ、ほんの一瞬だけ視線が交じり合う。
しかし、ルーカスの瞳はあっけなく絢子から逸らされてしまった。
まるで、“違う”と告げるかの様に。
「そうよね……。分かっているつもりなのに」
呼びかけたい衝動を必死に押し殺し──
彼を見守る事しか出来ない。
ざわめく空気の中。
法王がゆるやかに立ち上がる。
すると、次第に群衆の声が止み。
次から次へと、法王へ祈りを捧げ始めた。
白い法衣が光を受けて淡く輝く。
その姿はまるで、この世界の“理“そのものを表しているかの様だった。
「輪廻に触れ、理を歪めし者よ!
その罪は極刑に値する。存在の抹消をもって償いとせよ」
朗々とした声が、空を震わせる。
すると、神官達が一斉に聖印を掲げた。
詠唱が始まり、ルーカスの足元に刻まれた魔法陣が光を帯びていく。
その瞬間──
ルーカスの視線が止まった。
目を見開き、何かを見つめるように空を仰ぐ。
すると、周囲では何かが軋むような音が響いた。
ルーカスの体に大きな変化は無い。
だが、音は次第に激しさを増していく。
それは、本来目には見えない筈の“魂”が、ひび割れていく音。
肉体の内側で、硝子の膜のようなものが砕け散る。
ひとつ、またひとつ。
破片のような光の粒が、ルーカスから零れ落ちていく。
粒はすぐに空気へと溶け、形も残さない。
群衆はその異様な光景に息を呑みながらも、次第に歓声を上げていく。
誰もその“終わり”に至る過去がある事を、理解などしていない。
パリィン──ッ
一段と大きな破壊音が響いた直後──
ルーカスの口が動いた。
驚きの色が一瞬だけ宿るが、それは決して恐怖などではない。
柔らかな安堵に包まれ、ただ「……あぁ」と微かな声が唇を震わせる。
そして──
瞳からは、光が完全に消えていく。
皮膚がひび割れ。
髪が、瞳が、臓器が、骨が、砂へと変わる。
風が吹く度、砂は光を放ちながら空へと舞っていく。
群衆の誰もがその光景に目を奪われ。
恐れ、安堵し──
だが、それ以上の興味をもう既に失っていた。
絢子はその瞬間を、手を握りしめながら見つめる。
涙を堪えようとする度に爪が食い込む。
(泣いたら駄目……!ルーカスが見えなくなる)
何度も自分に言い聞かせる。
声にならない言葉が、喉の奥で次々と形を失っていった。
「さよならは言わないわ……ルーカス」
その一言だけが──
自然と溢れ落ちていった。
♢♢
やがて鐘の音が止むと、儀式が終わる。
法王は立ち上がり、周囲を見渡した。
「よく聞け──! 理は常に不可侵である。秩序を乱した者が辿る末路を、決して忘れるな」
その声は冷たく澄み。
群衆の心に“安心”を与える。
彼らは罪が裁かれた“正しさ”に、満足していた。
法王の退席を合図に、神官たちが淡々と片づけを始めていく。
群衆の熱も次第に冷め、何事もなかったかのように日常へと戻っていく。
その静けさが、絢子には何よりも恐ろしかった。
ほんの数秒前までそこに存在していた命が、誰の記憶からも消えていく。
彼の名を呼ぶ者もいなければ、涙を流す者もいない。
自分だけが、確かに“彼がいた”ことを覚えている。
ただそれだけが、絢子を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
絢子も席を離れ、十字架の前に立つ。
砂の残滓が、まだそこには残っていた。
掬おうと砂に触れる度──
更に崩れて、手から溢れ落ちていく。
「ここまで、何も残らないなんて……」
全てを無に還す。
その言葉通りの結果に、絢子は堪らず目を閉じた。
存在すら残らない、縋れるのは自身の記憶だけ。
(大丈夫……きっと大丈夫)
ルーカスの前で誓った“忘れない”という覚悟の言葉。
(例えこの先、どんな制約があったとしても。意思は変わらないわ)
たったひとつの思いを胸に。
絢子は何も持たず、その場を後にした。
──絢子背中が去った後。
十字架の中心に、ほんの僅かに熱を持った空気の塊が留まっていた。
遠い空の果てで、微かに光る欠片が脈打っている
それは、誰の目にも映らない──
“生”の残響だった。
♢♢
どれほどの時間が経ったのか。
気が付くと、広場は人影がまばらになっている。
絢子は立ち尽くしたまま、しばらく空を見上げていた。
(あの鉛雲の向こうに、彼の魂はまだ漂っているのかしら……。それとも、もう既に虚空へと消えてしまったの?)
そう物思いにふけっていると、背後から衣擦れの音が近づく。
「絢子様……」
振り向くと、そこにはミレイユが立っていた。
「法王様の命により、絢子様をリュシア様の館へ返還いたします。
本件について、法王庁の監視は継続されますが……これ以上の尋問も拘束も行われません」
「そう……ですか」
赦されたわけではない。
この世界に取り残された──
ただ、それだけ。
それでも、もう立ち止まることはできなかった。
足を踏み出すごとに、重い空気が背を押しながら、絢子を馬車に乗せた。
車輪がゆっくりと動き出す。
法王庁の高い尖塔が遠ざかる度に、胸の奥に痛みが広がる。
人々のざわめき、子どもの笑い声、パン屋の呼び声。
全てがあまりに平穏で。
それが、かえって現実味を奪っていく。
(もう、誰も知らないんだわ。 ルーカスのことを)
世界は何ひとつ変わらない顔をして、今日も動いている。
誰かの命が消えたとしても、太陽は昇ってくる。
そのことが、絢子の目には何よりも残酷に映った。
やがて馬車が丘を越える。
懐かしいリュシアの館。
扉が開き──
出迎えたリュシアが、絢子を抱きしめた。
何も言わず、何も問わず。
ただ、静かに震える肩を包み込む。
「お帰りなさい。絢子」
その一言に、絢子の心が次第に崩れる。
張り詰めていた何かが、音もなく解け。
そのまま、リュシアの胸の中で小さく呟いた。
「帰って……これたんですね……私」
「ええ、そうね。今日は疲れたでしょう……ゆっくり休みなさい」
リュシアはそれ以上を言わず。
絢子の背中を支えて中へ導いた。
足を踏み入れた瞬間──
外のざわめきが途切れ、静寂が降りる。
どこか遠い場所で、風が雨を連れてきたらしい。
窓を叩く小さな雨音が、絶え間なく続いていた。
胸の奥で、まだ何かが残っている気がする。
それが希望なのか、痛みなのか。
絢子自身には分からなかった。




