第16話 霞む約束
法王庁の奥深く。
外界から隔離された“処刑場”──
その場所に絢子達は案内されていた。
ルーカスの足枷が重く床を叩く度に、絢子の胸はきつく締め上げられていく。
(もう……戻れないのよね)
胸の奥に広がるのは──
冷たい諦めでも、熱い抵抗でもない。
“その時”が近づいている。
ただ、それだけだった。
先導する衛兵の足が止まると、ルーカスと絢子は石造りの壁に囲まれた、小さな部屋に通された。
中央に置かれた机と椅子が二脚。
それ以外には何も無い。
「こちらの赤い扉から先は、処刑場となります。
法王様からは、お二人の“最後”の対話が許されました。『悔いを残さぬように』との事です」
衛兵が手短に説明する。
法王の温情による猶予。
だが、二人にとってそれは救いではなく──
ただの、別れの挨拶にしか過ぎなかった。
♢♢
「変な感じだな」
ルーカスが小さく笑う。
「こんなふうに向かい合って話すのは、子どもの頃以来かもしれない」
「……そうね」
ふと、絢子の脳裏に懐かしい景色が浮かぶ。
夕暮れの土手。
背も低く、互いに”初めて“を分け合った日々。
「絢子は覚えている?僕らが出会った日のこと」
「ええ。覚えているわ」
いつも心の片隅にあった記憶。
恐怖に怯えた表情が安堵に変わっていく──
”シロ“の笑顔が蘇る。
「君は言った『大丈夫。私が一緒にいるからね』って……。僕はその日から、君のことがずっと好きなんだ」
ルーカスは遠い過去を、恋しむ様に告げる。
「恋だなんて簡単な言葉じゃ足りない。
僕にとって、君が世界の中心で。優しい言葉をかけて笑ってくれた。その記憶があったら、君がいない世界でも生きていけたんだ」
「ルーカス……」
「でも!」
彼の瞳が次第に、切なさに揺れていく。
「いまの君は……別の人を想っている。
絢子の記録を見つめ続ける中で、君の側には見知らぬ“誰か”が寄り添っていた」
「君は彼と笑い、泣いて、支え合っていて……。僕がいなくても、十分幸せに生きていた」
「……」
絢子はしばらく言葉を探し、頷いた。
「私も貴方が初恋だった。けど、あの頃は恋という感情が分からなくて、ただ傍にいてほしいと……。それが恋だと自覚する前に、私達は離れ離れになってしまったの」
絢子の声は、確かにルーカスに寄り添っている。
だが、それは懐かしい記憶を大切に抱きながらも、もう既に過去として割り切った残酷さが滲んでいた。
「ずっと、あの村で貴方を待ち続けた。都会にも出て、随分探し回ったわ。
何度も、何年もかかって、それでも……手掛かりすら掴めなくて……。とうとう諦めてしまった。丁度その頃に、夫と出会ったの」
絢子は小さく顔を歪め、目を細めた。
「私ね、ずっと夫のことを”シロくん“だと勘違いしていたの。
きっと……龍司さんも、そのことに気がついていた筈だわ。それでも彼は何も言わずに、穏やかな笑顔で私の側にいてくれた」
次第に声が震え、涙が滲む。
「結婚生活は短かったけれど、とても幸せだった。
彼はね『ありがとう』と……。ただ、それだけ言い残して……先に逝ってしまったの」
脳裏に焼き付いて離れない龍司の最後。
『ありがとう』その一言の裏に、一体どれほどの想いが込められていたのか。
だが、それを確認することはもう二度と叶わない。
「いまでも夫を愛しているわ。
もしも私に来世が許されていたら……今度こそ、身代わりとしてではなく、龍司さん自身と向き合って、彼の隣を歩きたかった」
絢子はルーカスを真っ直ぐに見つめる。
「貴方は私にとって、何よりも大切な人よ。決して忘れたりはしない。
でも、それはきっと……恋とは別の感情で。貴方への想いは、“恋”から“家族”という形へと昇華してしまった。貴方の想いに、応えることはもう出来ないの……。本当にごめんなさい」
「──ッ」
絢子の心に自分の居場所は無い──
その事実を突き付けられながらも、ルーカスの胸には、不思議と温かさを伴って響いていた。
「良いんだ。いまの僕を……好きになってくれだなんて言えない。確かに嫉妬もしたけど、僕はあそこまで大人にはなれない筈だ。
それでも!僕は今でも君だけが好きなんだ。それだけは……どうか許して欲しい」
「……ええ」
二人の間に落ちる沈黙は、何処か切なさを含んだ寂しさがあった。
絢子は深く息を吸い、震えるルーカスの手を握り直す。
「でもね、ルーカス。
もしも、出会ったあの日……。救ったのが、別の“誰か”だったなら。貴方はその“誰か”に恋をしたかもしれない。私以外を知らなかったから、ずっと気づかなかったんだわ……」
「そんなはず──!」
ルーカスは一瞬、言葉を失った。
幼い頃の恋心に縛られ──
絢子しか存在しない世界に、違う未来があった可能性を初めて意識させられる。
絢子はだだ、その沈黙を見つめる。
「貴方は私だから、恋をした訳ではなく。愛情を与えてくれる存在なら、きっと……誰でも良かった筈だわ」
「そんなの嘘だ!僕がいままで……どんな思いで君を……」
息を詰め、目を伏せる。
胸に深く刺さるのは、絢子への想いは必然などでは無く。
偶然の結果にしか過ぎないという、残酷な事実だけだった。
「それでも僕は.....」
言葉が止まり、混乱と痛みが渦巻く。
自分の絢子への想いが本物なのか──
いまとなっては、答えは出せなくなってしまっていた。
「それでも、私を想ってくれた事実に変わりはないわ。例えこの先の人生で、貴方が別の人を選んだとしても構わない。いまこの瞬間を。目の前にいる貴方は、私が受け止める。それだけは決して変わらない」
「──!……ありがとう」
ルーカスは視線を合わせ、震える声で答える。
「ありがとう……。絢子……」
深い静寂の中には、切なさと小さな温もりが混ざり合う。
そうして、しばらく手を繋いだまま。
互いに涙を流し合っていた。
♢♢
リィン
遠く、扉の向こうから鈴の音が鳴る。
静寂を破る規則正しい足音が、石床を伝い徐々に近づいて来た。
「失礼致します」
扉が開き一人の神官が姿を現した。
「時間が参りました。これから儀式を執り行います」
白い法衣に包まれ、肩から腰にかけて魔力の紋章が浮かぶ。
その手には小さな聖印が握られていた。
もう、残された時間は無い。
絢子はルーカスの手を握り直すと、そっと耳元で囁いた。
「怖くても、悲しくても、どうか選んで。貴方自身の心で」
ルーカスはその言葉に震える指で握り返すと、ゆっくり目を開いた。
瞳の奥には恐怖と決意。
そして、ほんの少しの後悔が混じる。
その瞬間──
神官は静かに聖印を掲げ、淡い光の紋様がゆらめき始める。
空間が揺れ、部屋全体が光を帯びていく。
重苦しい時間の中で、二人の心は互いの存在にしがみ付くように寄り添った。
「準備は整いました」
神官の無機質な声が、不気味な静寂を連れて来る。
ルーカスは絢子の手を握ったまま、深く息を吸い込む。
心の中で何度も葛藤が渦巻いていく。
消される。
自分の存在価値が、生きる意味が全てが消えるという事実に、逃げ出したい気持ちもあった。
だが同時に、絢子の言葉が胸の奥で響く。
『貴方を忘れない』
光の紋様がルーカスを包んでいき、体中にじわじわと圧力をかける。
魂の奥底から──
あの日の出会い、幸福な過去、再会を夢見た時間。
様々な記憶が引き剥がされていく。
「……怖い」
小さく呟き、絢子の手をひたすら強く握りしめる。
「でも、僕は──」
言葉が途切れ、涙が頬を伝う。
光が強まり、紋様がルーカスの体を包み込む。
意識の奥底から絢子の姿が浮かんでは、儚く消えていく。
必死に手を伸ばしても届かない──
そこには確かな温もりの代わりに。
空虚が広がっているだけだった。
記憶は消え──
愛おしい”誰か“の名前も顔も思い出せない。
けれど、ルーカスの胸に説明しきれないざわめきが残る。
彼自身に”それ“の正体は理解できない。
ただ、消えたはずの温もりが指先に触れたような気がして。
その温もりだけを、必死に追いかけていた。
光が完全に消えていく。
ルーカスはただ深く、息を吐いた。
心にぽっかりと空いた虚無。
その空白を、ただの孤独だと思おうとしても”何か“が、その感情を押し留めていた。
瞳は確かに絢子の姿を映している。
だが、そこに宿る感情はもう既に、以前のものではなかった。
「浄化魔法は完了致しました。処刑までいましばらくお待ちください」
衛兵が扉を開き、絢子に退出を促す。
絢子は最後に、もう一度だけ手を強く握った。
しかし、その手をルーカスが握り返す事は、もう無い。
(それでも……終わりにしてはいけない)
彼の姿を深く目に焼き付け、思いを告げる。
「貴方の過去は私が守っていく、だから安心して。いってらっしゃい、ルーカス。どうか元気でね……」
そう願いを込め。
名残惜しげに、手を離したのだった。
絢子は何度も振り返りながら、歩き出す。
目の前のルーカスを永遠に失う──
その重みに耐え、それでも胸の奥に微かに残る温もりを胸に。
未来へと足を進めた。




