第9話 「迷子の努力とコンパスの針 (前編)」
斉藤明彦が本来の輝きを取り戻してから、2年B組の雰囲気は以前にも増して活気に満ちていた。
間近に迫った期末テストに向けて教え合ったり、夏の部活動の大会に向けて互いを励まし合ったりと、クラス全体がそれぞれの目標に向かって前向きなエネルギーに溢れているように見えた。
しかし、そんな明るい雰囲気の影で、一人、焦りと不安に表情を曇らせている生徒がいた。
宮沢詩織。
クラスの副委員長で、吹奏楽部に所属する彼女は、誰からも一目置かれる真面目な努力家だ。
課題は完璧にこなし、部活動の自主練習も誰より熱心に行う。
そんな彼女が、最近どうも元気がないことに、橘凛は気づいていた。
「宮沢さん、最近顔色が優れないみたいだけど、大丈夫? テスト勉強、詰め込みすぎじゃない?」
昼休み、一人で参考書とにらめっこしている宮沢に、凛が心配そうに声をかけた。
宮沢は、顔を上げて力なく微笑んだ。
「ありがとう、橘さん。大丈夫よ。ただ…ちょっと、思うようにいかなくて」
その言葉には、彼女の努力家ぶりからは想像もつかないほどの、深い疲労と焦燥感が滲んでいた。
宮沢は、ここ最近スランプに陥っていた。
テスト勉強に毎日何時間も費やしているのに、模試の成績は横ばいか、むしろ少しずつ下がっている。
命をかけている吹奏楽部のフルートも、夏のコンクールメンバーの選考が近いというのに、どれだけ練習しても納得のいく音が出せず、顧問の先生からも厳しい指摘を受けていた。
「こんなに頑張っているのに、どうして結果が出ないの…? 私の努力は、全部無駄なのかしら…」
夜、部屋で一人になると、そんな思いが頭を駆け巡り、涙が止まらなくなることもあった。
睡眠時間も削って勉強や練習に打ち込むが、それは焦りをさらに募らせるだけで、心身ともに追い詰められていた。
道真も、宮沢のその尋常ではない頑張りっぷりと、それに反比例するかのような彼女の覇気のなさに、どこか危うさを感じ取っていた。
彼女の努力は本物だ。
しかし、その努力が彼女自身を苦しめているように見えた。
ある日の放課後、真が教室で日直の仕事を終えた凛を待っていると、音楽室から一人、トボトボと力なく出てくる宮沢の姿を見かけた。
その手にはフルートケースが握られているが、肩は落ち、表情は暗い。
「おー、宮沢じゃん。今日も特訓か? 精が出るなー」
真がいつものように軽い口調で声をかけると、宮沢はびくりと肩を揺らし、作り笑いを浮かべた。
「道君…うん、まあね。下手だから、人より頑張らないと」
「ふーん」真は宮沢の顔をじっと見つめると、こう言った。
「なあ宮沢、ちょっと聞いてもいいか? お前さ、その努力、楽しいか?」
「え…?」
予想外の質問に、宮沢は言葉に詰まる。
楽しいわけがない。
苦しくて、辛くて、逃げ出したいけれど、逃げたらもっとダメになる気がして、必死にしがみついているだけだ。
真は、そんな宮沢の心中を見透かしたように続けた。
「ただ闇雲にバット振り回してるだけじゃ、なかなかホームランは打てねえだろ? どんなに素振りしたって、フォームが悪けりゃ肩壊すだけだし、タイミングがズレてりゃ空振りばっかだ。ちゃんと、的を狙って、正しい振り方で振らなきゃ、な」
「的を狙う…正しい振り方…?」
「そう。努力ってのはさ、ただ時間をかければいいってもんでもねえと思うんだよ。方向が違ってたり、やり方が自分に合ってなかったりすると、いくら頑張っても空回りするだけだ。マラソンだってそうだろ? ゴールばっかり見て足元がお留守になっちまったら、途中で石ころにつまずいてリタイアだ。一歩一歩、今の自分の状態をちゃんと見ながら進むことも、大事なんじゃねえか?」
真の言葉は、宮沢の心の奥深く、ずっと蓋をしていた部分に突き刺さった。
彼女は、ただ量をこなすことに必死で、自分のやり方や心の状態を冷静に見つめることを忘れていたのかもしれない。
「でも…頑張らないと、結果は出ないじゃない…!」
宮沢は、か細い声で反論した。
それが、今の彼女を支える唯一の信条だったからだ。
真は、そんな宮沢の必死さを真正面から受け止め、静かに言った。
「もちろん、頑張ることは大事だ。でもな、努力ってのは、自分を追い詰めるためのロープじゃなくて、自分をより高く成長させるための燃料みたいなもんだと思うんだよ。ガス欠になる前に、時にはちゃんと給油してやらねえと、エンジンそのものがダメになっちまうぜ?」
そして、少し悪戯っぽく笑って付け加えた。
「それにさ、時には、頑張らない勇気っていうか、頭を冷やすための一休みをする賢さも、結構大事なスキルだったりするんじゃねえの? ずっと張り詰めてたら、いい音も出ねえだろ、フルートだって」
真の言葉の一つ一つが、宮沢の心に重く、しかし確かな波紋を広げていった。
今まで信じて疑わなかった「努力すれば報われる」という言葉が、少し違う意味合いを帯びて聞こえ始める。
もしかしたら、自分は努力の迷路で道に迷ってしまっているのかもしれない。
(頑張らない勇気…一休みする賢さ…)
そんなことは、考えたこともなかった。
「じゃあな、宮沢。あんまり根詰めすぎるなよ」
真はそう言うと、待っていた凛と一緒に教室を出て行った。
一人残された宮沢は、真の言葉を何度も何度も反芻していた。
すぐに答えが出るわけではない。
長年の思考の癖は、そう簡単には変わらないだろう。
しかし、彼女の心の中に、今までとは違う小さな光が灯り始めたのは確かだった。
それは、迷子の努力家にとって、新しい道を示すコンパスの針が、ゆっくりと動き始めた瞬間だったのかもしれない。