第7話 「ココロとカラダの定期メンテナンス (前編)」
教室から盗まれた募金が無事に戻り、クラスに平穏が訪れてから数週間が過ぎた。
道真の言葉がきっかけで、クラスメイトたちの間に生まれた小さな変化は、確実に良い方向へと作用しているようだった。
橘凛も、以前のように真の言動に眉をひそめることは減り、むしろ彼の発する「じっちゃんの知恵」に耳を傾け、その意味を自分なりに解釈しようとすることが増えていた。
そんな折、学校では健康診断の結果が個々に返却され、教室のあちこちで「視力また落ちたー」「運動不足って書かれちゃった」などと、健康に関する話題が飛び交っていた。
その中で、凛はクラスのムードメーカー的存在である斉藤明彦の様子が少し気になっていた。
斉藤はサッカー部に所属し、いつも冗談を言って周囲を笑わせる明るい性格で、クラスの人気者だ。
しかし、最近の彼はどこか精彩を欠いているように見えた。以前のような会話のキレがなく、時折ぼんやりと宙を見つめていることがある。
授業中にウトウトしている姿も見かけるようになった。
「斉藤君、最近ちょっと疲れてるんじゃない? 大丈夫?」
ある日の昼休み、凛が思い切って声をかけると、斉藤は一瞬ハッとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑顔を作って答えた。
「え? ああ、全然ヘーキだって! ちょっと春眠暁を覚えず、ってやつ? なんか最近眠くてさー」
そう言って頭を掻き、誤魔化すように大きなあくびをする。
しかし、その目の下のうっすらとした隈や、どこか無理をしているような明るさは、凛の心配を拭い去るには至らなかった。
実は斉藤は、最近、夜遅くまでオンラインゲームに没頭し、友人たちとのSNSのやり取りにも時間を費やしていた。
食事もコンビニ弁当やスナック菓子で済ませることが多く、生活リズムは完全に崩壊していたのだ。
その結果、大好きなサッカーの練習でも集中力が続かずミスを連発し、レギュラーの座も危うくなりかけていた。
成績も徐々に下降線を辿り、内心では焦りと自己嫌悪を感じていたが、プライドの高さと「いつも明るい斉藤」という周囲のイメージを壊したくない一心で、誰にも相談できずにいた。
真も、斉藤のその変化には気づいていた。いつものように軽口を叩きながらも、その観察眼は斉藤の細かな仕草や顔色の変化を捉えている。
だが、真は無理に彼の悩みを聞き出そうとはしなかった。
ただ、斉藤がふと一人になる瞬間を見計らって、さりげなく声をかける程度だった。
「よお、斉藤。なんか最近、顔パスの認証エラー多発してんじゃねえの? ちゃんと充電しとけよー」
「なんだよ、道。俺の顔はそんなに電池切れに見えるか?」
斉藤は苦笑するが、真の言葉はどこか彼の胸にチクリと刺さった。
ある放課後、部活を終えた斉藤が、グラウンドの隅で一人落ち込んでいる姿があった。
今日の練習でも、彼は決定的なミスを犯してしまい、コーチから厳しい叱責を受けていたのだ。
「クソッ…なんでだよ…」
地面に座り込み、頭を抱える斉藤。そこに、いつものように飄々とした真が通りかかった。
「おー、斉藤じゃん。黄昏てんのか? 青春ドラマのワンシーンみてえだな」
「道…うるさいよ、ほっといてくれ」
斉藤は苛立ちを隠そうともしない。
真は、そんな斉藤の隣にどかっと腰を下ろすと、空を見上げながら言った。
「まあ、そう言うなよ。でさ、ちょっと聞いてもいいか? お前さ、自分のこと、ちゃんと大事にしてるか?」
「は? なんだよいきなり…」
「いや、別に深い意味はねえんだけどさ」真は言葉を切ると、少しだけ真剣な眼差しで斉藤を見た。
「どんなに高性能なスーパーカーだって、ガソリン空っぽで、タイヤもパンクしてたら、ただの鉄の塊だろ? エンジンだって、ちゃんとメンテしてやらなきゃ、最高のパフォーマンスなんて出せっこねえ。人間の体も、それと一緒だと思うんだよな」
斉藤は、真の言葉に何も言い返せなかった。図星だったからだ。
「自分を大事にするってのはさ、自分勝手に生きるってこととは違うんだぜ。最高の自分を発揮するための、なんていうか、基本中の基本? 心と体は繋がってっからな。どっちかが悲鳴上げてたら、もう片方も本調子じゃいられねえのよ」
真は、誰に言い聞かせるでもなく、淡々と続けた。
「夜更かしして見る夢より、ぐっすり寝てたっぷり充電した頭で見る現実の方が、よっぽど面白いし、エキサイティングだぜ、たぶん」
真の言葉は、説教めいたものではなかった。
しかし、それは斉藤の心の奥底に、じんわりと染み込んでいくようだった。
いつも冗談ばかり言っている真が、時折見せるこういう真剣な眼差しと言葉には、不思議な説得力があった。
(最高の自分…か)
斉藤は、真の言葉を反芻しながら、自分の今の生活を省みた。ゲーム、SNS、不規則な食事、睡眠不足…。
それらが、自分の大好きなサッカーや、友人たちとの楽しい時間を、少しずつ蝕んでいたことに、ようやく気づき始めていた。
「ま、俺が言えるのはそんくらいかな」真は立ち上がると、斉藤の肩を軽く叩いた。
「あとは、お前がどうするかだ。自分のエンジン、どうチューンナップするかは、お前次第ってこった」
そう言って、真はいつものようにひらひらと手を振って去っていった。
残された斉藤は、しばらくの間、グラウンドに座ったまま動けなかった。
真の言葉が、重く、しかし確かな希望の光のように感じられた。長年の習慣をすぐに変えるのは難しいかもしれない。
ゲームの誘惑も、夜更かしの癖も、そう簡単には断ち切れないだろう。
それでも、斉藤の心の中には、小さな、しかし確かな変化の兆しが芽生え始めていた。
(まずは…今夜、少し早く寝てみるか…)
それは、彼にとって、自分自身を取り戻すための、小さな最初の一歩だったのかもしれない。
凛は、部室の窓からその一部始終を遠巻きに見ていた。
真が斉藤に何を語ったのかは聞こえなかったが、落ち込んでいた斉藤の表情が、真と話した後、少しだけ変わったように見えた。
(道君…また、何か大切なことを伝えたのかしら)
凛の胸には、真への新たな好奇心と、斉藤君への友人としての心配が交錯していた。