第5話 「消えた善意と心のカギ (前編)」
道真の言葉がきっかけで、田中誠一君を巡るクラスの淀んだ空気が浄化されてから数日。
橘凛は、真に対する認識を大きく改めていた。
以前はただの騒がしいお調子者としか見ていなかったが、今では彼の言葉の裏にある深い洞察力や、さりげない優しさに気づき始めていた。
休み時間に、真が「じっちゃんの知恵」とやらを軽口交じりに話すのを、以前より素直な気持ちで聞けるようになっている自分に、凛自身も少し驚いていた。
そんなある日、2年B組では新たな問題が持ち上がっていた。
数週間前から、クラス委員である凛が中心となって、近隣の福祉施設へのボランティア活動と、その活動資金のための募金が行われていた。
生徒たちは自主的に小銭を持ち寄り、教室の後ろに置かれた手作りの募金箱は、少しずつ善意の重みを増していた。
集計は週末に行い、週明けにまとめて施設へ届ける予定だった。
事件が発覚したのは、金曜日の放課後だった。凛がいつものように募金箱の中身を確認し、ノートに金額を記録しようとした時、異変に気づいた。
「あれ…?」
昨日までの集計額と、今日の箱の中身が明らかに合わない。
何度数え直しても、数千円ほど足りなかった。
最初は自分の計算間違いかと思ったが、記録と照らし合わせても、やはり金額が不足している。
(まさか…盗まれた…?)
凛の顔からサッと血の気が引いた。
クラスのみんなが少しずつ出し合った、大切な募金だ。
それが、この教室の中でなくなったという事実に、凛は激しいショックと、管理者としての責任を痛感した。
「どうした、委員長? 顔真っ青だぜ?」
教室に一人残って作業をしていた凛に、忘れ物を取りに来たらしい真が声をかけた。
凛は震える声で事情を説明した。
真はいつものように飄々とした表情を崩さなかったが、話を聞き終えると、募金箱と凛の記録ノートを黙って見比べた。
「ふぅん、なるほどな。確かに、計算が合わねえな」
「どうしよう、道君…私、みんなに何て言えば…」
凛の声はかすかに震えている。
週明けの月曜日、ホームルームで凛が募金の一部がなくなったことを報告すると、教室は水を打ったように静まり返った。
そして、すぐにざわめきが広がる。
「え、マジで? 誰がそんなこと…」
「ひどい、人の善意を踏みにじるなんて」
「犯人、このクラスにいるってこと…?」
疑心暗鬼の囁きが交わされ、お互いの顔を窺うような気まずい空気が教室を満たし始めた。
一部の生徒は、「昨日、最後に教室に残ってたのは誰だ?」などと、犯人捜しのような言葉を口にし始める。
凛は、そんなクラスの雰囲気に胸を痛めながらも、どうすることもできずに俯いていた。
真は、腕を組んでその様子を静かに眺めていた。
誰かを非難するでもなく、かといって茶化すでもない。
ただ、じっとクラス全体を見渡し、時折、何かを考えるように小さく首を捻っている。
そして、犯人捜しの声が大きくなりかけた時、真がぽつりと言った。
「まあ、落ち着けよ、みんな。金が消えちまったのは確かにショックだけどさ、それで俺たちの心がギスギスしちまったら、それこそ元も子もねえぞ」
その言葉に、ヒートアップしかけていた数人の生徒がハッとしたように口をつぐむ。
「なくなった金は確かに惜しい。みんなの気持ちがこもってたもんだしな。でもよ、それよりもっと大事なのは、なんでそんなことになっちまったのか、だよな。そして、これからどうするべきか、だ」
真の言葉は、犯人を追及するのではなく、クラス全体に問いかけるような響きを持っていた。
彼は続ける。
「誰だって、間違いを犯すことはある。魔が差すってやつだな。大事なのは、その間違いに気づいたとき、どう行動するかだ。隠し通そうとすればするほど、心の重荷は雪だるまみたいにどんどんデカくなる。正直に打ち明ける勇気ってのも、時には必要なんだぜ」
その言葉は、特定の誰かに向けられたものではないはずなのに、教室の数人がびくりと肩を揺らしたように見えた。
「もちろん、人のものを盗むなんてのは、絶対にやっちゃいけねえことだ。それは大前提としてな」
真はそう付け加えると、あとは何も言わず、窓の外に視線を移した。
真の言葉は、確かに何人かの心に響いたようだった。
しかし、すぐに犯人が名乗り出るわけでもなく、教室には重苦しい沈黙が続く。
凛は、募金がなくなったことへの責任と、クラスの雰囲気が悪化していくことへの無力感に、唇を噛みしめるしかなかった。
(どうすればいいの…このままじゃ、クラスがバラバラになっちゃう…)
真は、そんな凛の苦悩を知ってか知らずか、ただ静かに何かを待っているかのようだった。
彼の視線は、時折、教室のある一点に向けられているような気もしたが、凛にはそれが何を意味するのか分からなかった。
盗まれた善意と、疑心暗鬼に揺れる心。
事件は、まだ解決の糸口を見つけられないまま、重くクラスにのしかかっていた。