第3話 「言葉のブーメラン (前編)」
佐藤恵と鈴木早紀の一件から数日が過ぎた。
橘凛の道真に対する見方は、以前の「単なるお調子者」という評価から、少しずつ変化し始めていた。
もちろん、彼の軽薄な言動に眉をひそめることは相変わらずだが、その奥に何かを見透かすような鋭さと、不思議な温かさが隠れているのではないか、と感じるようになっていたのだ。
とはいえ、真本人はそんな凛の心境の変化など露知らず、今日も今日とて教室でどうでもいいギャグを飛ばしては、一部の男子生徒と盛り上がっている。
そんな平和な日常の裏で、2年B組の空気は少しずつ淀み始めていた。
発端は、クラスでも比較的おとなしく、内気な性格の男子生徒、田中誠一に関する、根も葉もない噂話だった。
「ねえ聞いた? 田中君、この前の球技大会の時、わざと負けるように手抜いてたらしいよ」
「えー、マジで? なんでそんなことすんの?」
「さあ? なんか、目立ちたくないから、とか言ってたって誰かが…」
休み時間、教室の隅でそんな会話を交わしているのは、おしゃべり好きの女子生徒、BさんとCさんだ。
特に悪意があるわけではないのかもしれない。
ほんの少しの事実(あるいは完全な憶測)に尾ひれがつき、面白半分の好奇心によって、その噂はクラスの中にじわじわと広がっていった。
最初は小さな囁きだったものが、いつしか「田中はやる気がない」「協調性がない」といった、よりネガティブなレッテルへと姿を変えていた。
その結果、田中君は明らかにクラスの中で浮き始めていた。
以前は数少ない友人と静かに話していた彼も、最近は一人でうつむいていることが多く、授業中の発言もめっきり減ってしまった。
その顔には、いつも不安そうな影がつきまとっている。
凛は、そんな田中君の様子と、クラスに漂う不穏な空気に心を痛めていた。
風紀委員として、そして一人のクラスメイトとして、この状況を何とかしなければならない。
そう思った凛は、ある日の放課後、噂の中心にいるBさんとCさんに声をかけた。
「あの、Bさん、Cさん。最近、田中君のことで色々言ってるみたいだけど…ああいうのは良くないと思うわ。根拠のない噂で人を傷つけるのは…」
凛が勇気を出してそう言うと、Bさんは少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「えー、別に傷つけてるつもりなんてないし。ただ、みんなが言ってること話してるだけじゃん?」
Cさんも同調する。
「そうそう。それに、火のない所に煙は立たないって言うしー。橘さんって真面目すぎー」
凛は言葉に詰まった。
正論を言っているつもりでも、彼女たちの「悪意のなさ」と「面白半分」の壁は厚い。
むしろ、注意したことで「堅物な委員長」というレッテルを自分自身に貼られてしまったような気まずさだけが残った。
(どうすれば…)
凛は無力感に苛まれながら、一人ため息をつくしかなかった。
翌日の昼休み。
凛が重い気持ちで弁当を広げていると、例のBさん、Cさんを含む数人のグループが、またしても田中君の話題で盛り上がっているのが耳に入ってきた。
内容も、昨日よりさらにエスカレートしているように聞こえる。
田中君は、今日も一人、教室の隅で小さくなって本を読んでいた。
その背中が、やけに寂しそうに見える。
その時だった。
「おーっと、またまた人間観察ですか、皆さん。他人のアラ探しってのは、蜜の味って言うもんなー」
いつの間にかそのグループの近くに立っていた真が、いつもの飄々とした態度で、しかしどこか含みのある笑顔で話しかけた。
カバンからは、なぜかヨーヨーを取り出して器用に回している。
「な、何よ、道君。あんたに関係ないでしょ」
Bさんが警戒するように言った。
「まあまあ、そうカッカすんなって。俺もさ、人間って面白いなーって思って見てただけよ」
真はヨーヨーを巧みに操りながら、独り言のようにも、彼らに聞かせるようにも続けた。
「でもさ、言葉って不思議だよな。目に見えないのに、ナイフみたいに人をズタズタにすることもできるし、逆に、絆創膏みたいに傷を癒やすこともできる」
ヨーヨーがシュルシュルと音を立てる。
「で、一番タチ悪いのが、根も葉もない噂話とか、悪口の類だな。あれってさ、言ってる方は軽い冗談のつもりでも、言われた方は結構なダメージ食らうわけじゃん? しかも、一度広まっちまったら、なかなか消えねえときたもんだ」
真の口調はあくまで軽いが、その言葉には奇妙な重みがあった。
Bさんたちの表情が、少しだけ曇る。
凛は、息をのんで真の言葉に耳を傾けていた。
彼は、直接的にBさんたちを非難しているわけではない。
しかし、その言葉は鋭く、噂話の持つ暴力性と虚しさを的確に射抜いていた。
(あなたに何が分かるの、なんて思ってたけど…)
凛の心の中に、昨日までの無力感とは違う、かすかな期待のようなものが芽生え始めていた。
真なら、この淀んだ空気を変えてくれるかもしれない。
真は、ヨーヨーをピタリと止めると、グループ全体を見回してニヤリと笑った。
「ま、要するに何が言いたいかって言うとだな…」
彼は一呼吸置いて、こう続けた。
「言葉ってのはブーメランみたいなもんだってことよ。自分が投げた言葉は、いつか、何らかの形で自分に返ってくる。いい言葉を投げりゃいい言葉が、悪い言葉を投げりゃ悪い言葉がな。しかも、大抵ちょっとデカくなって返ってくるから、要注意だぜ?」
その言葉は、まるで教室全体に投げかけられたかのようだった。
噂話に興じていた生徒たちだけでなく、それを黙って聞いていた他の生徒たちの間にも、一瞬、気まずい沈黙が流れた。
真は、「んじゃ、俺は屋上で昼寝でもすっかなー」と、またヨーヨーを回しながら、ひらひらと教室を出て行った。
残された生徒たちは、顔を見合わせる。
真の言葉は、彼らの心に小さな、しかし確かな棘を残したようだった。
Bさんたちの表情からは、先ほどまでの軽薄な笑いは消えていた。