第17話 「見えない糸と、響き合う音 (前編)」
相沢美緒が心の傷を乗り越え、再び笑顔を取り戻したことで、2年B組の文化祭準備は一層活気づいたように見えた。
クラスTシャツのデザインも決まり、模擬店のメニューや内装のアイデアも次々と具体化していく。
目標に向かってみんなで力を合わせる、という理想的な雰囲気が生まれつつあるかのように思われた。
しかし、その水面下では、見えない波紋が少しずつ広がり始めていた。
文化祭実行委員で、クラスのリーダー的存在でもある遠藤航の強引ともいえる仕切り方に、不満を抱く生徒が出始めていたのだ。
遠藤はアイデアも豊富で行動力もあるのだが、熱意のあまり自分の意見を押し通そうとする傾向があり、反対意見や慎重な意見にはなかなか耳を貸そうとしなかった。
「この企画でいくのが絶対盛り上がるって! 時間ないんだから、細かいことはいいだろ!」
遠藤の大きな声が、放課後の教室に響く。
彼を中心とするグループはエネルギッシュに作業を進めているが、その影で、吉田小百合をはじめとする数人の生徒たちは、押し黙ったまま浮かない顔をしていた。
吉田は真面目で思慮深い性格だが、遠藤の勢いに押され、なかなか自分の意見を言い出せずにいたのだ。
「また遠藤君の独断だよ…私たちの意見、全然聞いてもらえないし」
「なんか、一部の人たちだけで勝手に進めてる感じだよね…」
作業の輪から外れた場所で、吉田たちはそんな不満を囁き合っていた。
直接遠藤に反論する勇気はなく、かといって積極的に協力する気にもなれず、クラスの準備は表面上進んでいるように見えても、どこかぎこちなく、不協和音が響き始めているのを橘凛は感じ取っていた。
クラス委員として、なんとかこの状況を改善しようと双方に声をかけるのだが、遠藤は「みんなのためを思ってやってるんだ!」と取り合わず、吉田たちは「どうせ言っても無駄だから…」と諦め顔だ。
そんなある日の全体ミーティング。
出し物の最終決定を巡って、遠藤の提案と、吉田が勇気を出して提出したもう一つの案とで意見が真っ二つに割れた。
議論は平行線を辿り、教室の空気はみるみるうちに重く、険悪なものになっていく。
遠藤は自分の案のメリットをまくし立て、吉田は小さな声でその問題点を指摘するが、お互いの主張は全く噛み合わない。
その時、教室の隅で黙って成り行きを見ていた道真が、いつものようにおどけた調子で口を開いた。
「よお、みんな。なんか、すごい熱気だな。文化祭っつーより、討論会の決勝戦みてえだぜ」
緊張感が漂う中、真の言葉はどこか場違いに聞こえたが、不思議と全員の意識が彼に集まった。
「なあ、ちょっと想像してみてくれよ。オーケストラってあるだろ? いろんな楽器が、それぞれ違う音を出す。バイオリンも、トランペットも、ティンパニも、みんな主役級の音だ。でもよ、もし指揮者がいなくて、みんなが周りの音を全然聞かねえで、自分の出したい音だけを、自分の好きなタイミングで、デカい音でガンガン鳴らしたら、それってどんな音楽になると思う?」
真の問いかけに、生徒たちは顔を見合わせる。
「…ただの騒音、だろ?」
「そゆこと。どんなに素晴らしい楽器でも、どんなに上手い演奏者でも、周りと調和しようとしなけりゃ、ただのやかましい音になっちまう。逆に、それぞれが自分の役割をちゃんと理解して、周りの音に耳を澄ませて、お互いの音を生かし合うように演奏するからこそ、心が震えるような、とんでもねえハーモニーが生まれるんだ」
真は、教室全体を見回しながら続けた。
「蜘蛛の巣って見たことあるか? 一本の糸が風で揺れると、巣全体がビリビリって震えるだろ? 俺たちのこのクラスも、案外そんなもんなのかもしんねえな。誰か一人がイライラしてると、なんか全体がピリピリしたり、逆に誰かが楽しそうだと、なんかこっちまでウキウキしてきたりするじゃん?」
遠藤も吉田も、そして他の生徒たちも、真の言葉に引き込まれるように耳を傾けていた。
「『風が吹けば桶屋が儲かる』って言うけどさ、俺たちが今ここでやってることも、それと一緒かもしんねえ。遠藤のその熱い思いも、吉田のその慎重な考えも、どっちもクラスを良くしようって気持ちから出てるのは分かる。でも、その思いが強すぎたり、伝え方がちょっとズレちまったりすると、見えないところで誰かをモヤモヤさせたり、逆にやる気を奪っちまったりすることもあるんじゃねえかな」
真の視線が、遠藤と吉田の間をゆっくりと往復する。
「自分だけが正しい、とか、あいつのせいで全部ダメになった、とか、そういう単純な話じゃねえんだよ、きっと。俺たちの言葉も、行動も、表情も、全部、目に見えない糸みたいに繋がってて、お互いに影響を与え合ってる。だからさ、自分の音を出す前に、ちょっとだけ周りの音に耳を澄ませてみる、自分が糸を揺らしたら、巣のどこがどんな風に震えるのか、ちょっとだけ想像してみる。そういうのが、今の俺たちには必要なんじゃねえかな」
真の言葉は、直接的な解決策を示したわけではなかった。
しかし、それは対立していた生徒たちの心に、今までとは違う視点をもたらしたようだった。
遠藤は、自分の熱意が周りにはどう映っていたのか、少しだけ考え込むような表情を見せた。
吉田も、ただ不満を溜め込むだけでなく、自分の思いをどう伝えれば調和を生むのか、ということを考え始めているようだった。
教室の重苦しい空気は、まだ完全には消えていない。
それでも、真が投げかけた「見えない糸」と「響き合う音」というイメージは、彼らの心に確かな波紋を広げ始めていた。
それは、バラバラになりかけていたクラスが、再び一つのハーモニーを取り戻すための、小さな序曲の始まりなのかもしれなかった。