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第16話 「握りしめた砂と、心の隙間 (後編)」


道真の言葉は、相沢美緒の心の奥底で、まるで小さな種のように芽吹き始めていた。


その夜、彼女は久しぶりに声を上げて泣いた。


しかしそれは、ただ失った恋人を思っての悲嘆の涙だけではなかった。


自分自身が「彼への執着」という見えない鎖で心を縛り付け、苦しみを再生産していたのかもしれない、という気づきに対する、混乱と、ほんの少しの解放感が入り混じった涙だった。


「本当に、彼がいなければ私はダメなの…? 彼といた時の私は、本当に幸せだった? それとも、彼がいない今の不幸を、過去の幸せで埋め合わせようとして、必死にそう思い込もうとしてるだけ…?」


枕を濡らしながら、美緒は何度も自問自答を繰り返した。


答えはすぐには出なかったが、今まで一方通行だった思考に、初めて「問い」という別の道が生まれた瞬間だった。


翌日、文化祭の準備で活気づく教室の隅で、美緒が一人ぼんやりと窓の外を眺めていると、橘凛がそっと隣に座り、何も言わずに缶コーヒーを差し出した。


その無言の優しさが、今の美緒には何よりもありがたかった。


「…ありがとう、橘さん」


「ううん」凛は小さく首を振ると、穏やかな声で言った。


「もしよかったら、放課後、少しだけ文化祭の衣装のデザイン、手伝ってくれないかな。美緒さん、センスいいから、何かアドバイスもらえたら嬉しいんだけど」


それは、美緒を気遣っての、凛なりの精一杯の誘いだった。


美緒は少し迷ったが、凛の真摯な眼差しに、小さく頷いた。


その日の放課後、美緒が教室で元彼と撮った写真のデータを見つめてため息をついていると、ひょっこり真が現れた。


「よお、相沢。思い出のアルバムでタイムスリップか? まあ、たまにはいいけど、あんまり長居しすぎると、今の自分が置いてけぼりになっちまうぜ」


美緒は慌ててスマホを隠そうとしたが、真は意に介さない様子で続けた。


「楽しかった思い出ってのはさ、心の栄養ドリンクみてえなもんだ。疲れた時にちょっと飲んで元気チャージするのはいいけど、そればっか飲んでたら、ちゃんとした毎日のご飯、美味しく食えなくなっちまうだろ? 今のあんたには、今のあんたに必要な栄養ってもんがあんだよ」


「…でも、忘れられないの」美緒がか細い声で呟くと、真は少し考える素振りを見せた。


「うん、忘れなくていいんじゃねえか? 無理に忘れようとするから、余計に忘れられなくなるってもんだ。忘れられないほど大事な時間だったってことだろ? それはそれで、素敵なことじゃねえか」


真の意外な言葉に、美緒は顔を上げた。


「ただな」


真は続けた。


「その思い出を、今の自分が前に進むためのかっこいい滑走路にしちまうか、それとも動けないように縛り付ける重たい錨にしちまうかは、結局、相沢、あんた次第なんだぜ。過去は変えられねえけど、過去の『意味』は、今のあんたがこれからどう生きるかで、いくらでも変えていけるんだからな。『あの経験があったから、今の私がいるんだ』って、いつか笑って言えるようにさ」


真の言葉は、美緒の心に深く刻まれた。


「過去の意味は、今の自分が変えられる」。その言葉が、彼女の中でリフレインする。


その日から、美緒は小さなことから行動を変え始めた。


まず、元彼のSNSのアカウントを見るのをきっぱりとやめた。


そして、部屋の引き出しの奥にしまってあった、彼との思い出の品々を、一つの箱に丁寧に詰めて、押し入れの最も奥まった場所へと仕舞い込んだ。


それは、忘れるためではなく、大切に「過去」として区切りをつけるための儀式だった。


文化祭の衣装係の仕事では、凛のサポートもあり、少しずつ自分のアイデアを口に出せるようになった。


最初は戸惑っていたクラスメイトたちも、美緒の的確なアドバイスやセンスの良さに気づき、次第に彼女を中心にデザイン作業が進んでいく。


誰かのために何かを作り上げるという行為が、美緒の心にほんの少しずつだが、新しい色を与え始めていた。


おしゃれをしたり、友人とくだらない話で笑い合ったりする中で、「彼がいなくても、楽しいと感じる瞬間がある」という事実に、彼女自身が一番驚いていた。


ある日、美緒は真のところに自分から話しかけた。


「道君…あのさ、この前の言葉、なんか…すごく心に響いた。ありがとう」


はにかみながらそう言う美緒に、真はいつもの調子で笑った。


「よせやい、俺はいつだって思ったこと言ってるだけだぜ。相沢が自分で気づいて、自分で心のハンドルを切り始めたってことだろ。大したもんだよ、あんたは」


文化祭の準備が佳境に入り、美緒がデザインしたクラスTシャツの試作品が完成した。


鮮やかな色使いと、クラスのテーマを巧みに取り入れたデザインは、クラスメイトたちから大絶賛された。


「すごいじゃん、相沢さん! めっちゃ可愛い!」


「これ着て文化祭やるの、楽しみになってきた!」


飛び交う称賛の声に、美緒の顔には久しぶりに心からの、そして晴れやかな笑顔が浮かんだ。


それは、失恋の痛みを乗り越えたからではなく、痛みと共に生きながらも、新しい自分を見つけ始めた証の笑顔だった。


凛は、そんな美緒の姿を、胸がいっぱいになるような思いで見つめていた。


真の言葉が持つ深い力と、人が苦しみの中から立ち上がり、再び歩き出す過程の尊さを、また一つ学んだ気がした。


文化祭当日が近づくにつれ、クラスの準備はますます熱を帯びていく。


しかし、それぞれの想いが交錯する中で、時に意見がぶつかり合ったり、他のクラスの出し物を意識しすぎたりと、新たな人間関係の複雑さや、目に見えない繋がりが、彼らの日常に微妙な影を落とし始めていた。


それは、まるで世界の縮図のようでもあり…。


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