第15話 「握りしめた砂と、心の隙間 (前編)」
中村健太が「集中」という新たな武器を手に入れ、充実した夏休みを過ごしたという話は、2年B組の生徒たちの間でもちょっとした話題になった。
新学期が始まり、教室は文化祭の準備で活気づき、どこか浮き足立ったような、それでいて目標に向かう一体感のようなものも生まれ始めていた。
しかし、そんな賑やかな教室の片隅で、一人だけ深い影の中にいるような生徒がいた。
相沢美緒。
おしゃれが好きで、いつも明るくクラスの話題の中心にいた彼女が、最近はめっきり口数も減り、その美しい瞳からは輝きが消えていた。
夏休み中に付き合っていた他校の彼氏と別れてしまったのだと、親しい友人たちが心配そうに噂していた。
橘凛も、日に日に元気がなくなっていく美緒の姿を案じていたが、どう声をかけていいものか分からずにいた。
美緒の落ち込みは深刻だった。
大好きだった彼を失った痛みは、彼女の心に大きな穴を開けたまま、日常生活の全ての色を奪い去ってしまったようだった。
食事も喉を通らず、夜も彼のことを思い出しては涙が止まらず、眠れない日が続いていた。
授業の内容も全く頭に入らず、楽しみにしていたはずの文化祭の準備にも、全く参加する気になれない。
「どうして私だけこんなに辛いの?」
「彼がいない世界なんて、もう何も楽しくない」。
そんな絶望感に心を支配され、彼女はまるで透明な壁で周囲から隔絶されてしまったかのようだった。
心配した友人たちが「元気出してよ」「他にいい人見つかるって」と励ましても、美緒の耳には届かない。
「放っておいてほしい」
「あなたたちには、私のこの気持ち、絶対に分からない」。
そう言って心を閉ざし、ますます孤立を深めていくばかりだった。
道真も、そんな美緒の痛々しい様子には気づいていた。
彼女が、失った恋人への強い想い、そして「幸せだった過去」への執着によって、自らその苦しみを何倍にも増幅させていることを見抜いていた。
しかし、彼は軽々しく声をかけることはしなかった。
傷ついた心にかける言葉は、細心の注意が必要だと知っていたからだ。
文化祭のクラス企画の話し合いが白熱している放課後の教室。
楽しそうな笑い声が響く中、美緒だけが一人、窓の外をぼんやりと眺めていた。
その姿は、まるで色を失った風景画のようだった。
真は、そっとその隣の空いている席に腰を下ろした。
「よお、相沢。なんか、心にデッカイ穴が開いちまったみてえな顔してんな」
真の突然の言葉に、美緒は驚いて顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。
「…あなたには、関係ないでしょ」
「まあ、そうかもしれねえけどさ」
真は、無理に美緒の顔を覗き込もうとはせず、同じように窓の外を見ながら続けた。
「失恋ってのは、確かに胸に風穴が開いたみてえに痛いよな。俺も、昔飼ってたカブトムシが死んじまった時、三日三晩泣き明かしたことあっから、ちょっとは分かるぜ、その気持ち」
美緒は、真の突拍子もない例え話に、ほんの少しだけ眉を動かした。
「でもさ」
真の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。
「その心の穴ぼこ、ずっと見つめてても、勝手に塞がったりはしねえんだ。むしろ、自分でどんどん大きくしちまってることって、ないか? 握りしめてる砂ってのはさ、大切にしようとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちていくもんだろ? 時には、そっと手を開いて、風に飛ばしてやる勇気も、必要なのかもしんねえぜ」
美緒の肩が、小さく震えた。
「『なんで私だけこんな目に』って思うかもしれねえけどさ、形や深さは違えど、みんな何かしらそういう心の傷みたいなもんは抱えて生きてるもんよ。問題は、その痛みの根っこがどこにあって、何が自分の心を縛り付けてるのか、ってことじゃねえかな」
真の言葉は、美緒の心の奥深く、誰にも触れられたくなかった場所に、静かに、しかし確実に届いていた。
彼がいないとダメだ、彼との思い出だけが私の全てだ、と頑なに信じ込もうとしていた自分の心。
それが、実は自分自身を一番苦しめていたのかもしれない、と。
「欲しいものが手に入らない、失ったものが二度と戻ってこない。その『のに』っていう気持ち…その執着が、あんたの心をがんじがらめにしてるのかもしれねえな」
真は、美緒の返事を待つでもなく、静かに続けた。
「無理に忘れようとしなくていい。楽しかった思い出は、宝物みてえに大事にしたっていいんだ。でもな、その思い出と一緒に、今の自分まで過去の牢屋に閉じ込めちまうのは、あまりにもったいねえぜ。だって、今のあんたは、ちゃんと息して、ここに生きてるんだからさ」
美緒は、俯いたまま何も言えなかった。
涙が、とめどなく頬を伝い落ちる。
それは、悲しみだけの涙ではなかった。
真の言葉が、固く凍りついていた心の氷を、ほんの少しだけ溶かし始めたような、そんな温かい痛みを伴う涙だった。
(執着…私が、彼に…?)
すぐには受け入れられない。
それでも、真の言葉は、彼女の中で無視できないほどの重みを持って反響し始めていた。
凛は、少し離れた場所から、二人の様子を心配そうに見守っていた。
真が美緒にどんな言葉をかけているのかは聞こえなかったが、美緒が静かに涙を流しているのを見て、胸が締め付けられる思いだった。
しかし同時に、真なら、美緒の心を少しでも軽くしてくれるかもしれないという、かすかな期待も抱いていた。
真は、それ以上何も言わず、ただ黙って美緒の隣に座っていた。
無理に慰めるでもなく、励ますでもない。ただ、彼女の心の嵐が少しでも収まるのを、静かに待っているかのようだった。
美緒の心の中で、何かが変わり始めている。
それはまだ、ほんの小さな変化の兆しに過ぎなかったが、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、彼女の未来を照らし始めるかもしれない、そんな予感を秘めていた。