第14話 「散らばる心と、虫眼鏡の焦点 (後編)」
道真の言葉を胸に、中村健太の「数学ラスボス討伐クエスト」は図書室で静かに始まった。
スマートフォンの電源はオフのまま、カバンの一番奥に押し込まれている。
目の前には、見るのも嫌だったはずの数式が並ぶ参考書。
最初の数十分は、まさに苦行だった。
頭の中では、友人からのSNSの通知音や、楽しそうなイベントの光景が勝手に再生される。
「あー、もうダメだ!」と何度投げ出しそうになったことか。
そのたびに、彼は真の「吸ってー、吐いてー」という言葉を思い出し、ぎこちなく深呼吸を繰り返した。
そして、無理やり意識を目の前の問題に戻す。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと顔を上げると、窓の外は少し西日が傾き始めていた。
そして、ノートには、自分が解いた問題の丸印が、思ったよりも多く並んでいることに気づいた。
「あれ…俺、こんなにできたのか?」
今まで感じたことのないような、じんわりとした達成感と、頭の中が奇妙にスッキリとした感覚。
それが、中村にとって「集中」というものの最初の報酬だった。
翌日、図書館で再び中村の姿を見かけた橘凛は、彼の雰囲気が昨日と少し違うことに気づいた。
「中村君、おはよう。なんだか、今日は少し落ち着いて見えるね」
「お、橘さん! いやー、昨日、道に言われた通り数学やってみたらさ、意外と進んでさ! なんか、ちょっとだけやれる気になってきたんだよな!」
興奮気味に話す中村に、凛は微笑んだ。
「それなら、夏休みの残りの計画も、ちゃんと優先順位をつけて、一つずつ集中できるように立て直してみない? 全部完璧にやろうとしなくても、大事なことから順番に片付けていけば、きっと大丈夫だよ」
凛の提案に、中村は「マジで!? 手伝ってくれんの? 助かるー!」と飛びついた。
二人は空いているテーブルで、中村の膨大な「やることリスト」を広げ、現実的で、かつ集中しやすいように細分化された計画表を一緒に作り上げていった。
数日後、バスケットボール部の自主練習に励む中村の姿があった。
以前のような散漫さはなく、ドリブルの音、ボールがリングに吸い込まれる音、自分の呼吸音だけが、彼の世界を満たしているようだった。
その額には汗が光り、目には確かな集中力が宿っている。
練習の合間に水分補給をしている中村に、いつの間にか体育館に来ていた真が声をかけた。
「お、中村。なかなかいいシュートフォームになってきたじゃん。心の照準も、だいぶ合ってきたみてえだな」
「道! まあな。でも、まだすぐ他のこと考えちまうんだよな…集中力、持たねえっていうか」
中村が少し悔しそうに言うと、真はニヤリと笑った。
「『今』に集中するってのはな、いわば心の筋トレみてえなもんだ。最初はスクワット一回でもキツいだろ? でも、毎日ちょっとずつでも続けてりゃ、だんだん心の筋肉もついてきて、重いバーベルだって持ち上げられるようになる。焦らず、自分のペースで鍛えていけよ」
真の言葉と凛のサポートを受けながら、中村は「一つのことに集中する」という心の筋トレを地道に続けた。
凛と作った計画表に沿って、午前中は国語の課題、午後は部活の基礎練習、夜は英語の単語暗記、といった具合に、時間ごとに取り組むべきことを一つに絞った。
もちろん、最初から全てがうまくいったわけではない。
テレビの音が気になったり、友人からの遊びの誘いに心が揺れたりすることもあった。
それでも、一度「集中」した時の心地よさと達成感を知った中村は、以前のように簡単に投げ出すことはなかった。
そして、その努力は着実に実を結び始めた。
宿題は計画通りに進み、心に余裕が生まれた。
その結果、バスケットボールの練習にもより身が入り、新しい技を習得したり、チームメイトとの連携がスムーズになったりといった具体的な成果も現れた。
何よりも、友人との遊びも、以前のように他のことを気に病むことなく、心から楽しめるようになったのだ。
ドタキャンや遅刻もなくなり、友人たちからの信頼も少しずつ回復していった。
夏休みも終わりに近づいた頃、中村は山積みだったはずの宿題をほぼ完璧に終わらせ、バスケットボールのスキルも格段に向上している自分に気づいた。
部屋の壁に貼られた夏休みの計画表には、たくさんの達成済みのチェックマークが誇らしげに並んでいる。
「道に言われた通りだったな…ジャグリングも、虫眼鏡も…。一個ずつ片付けたら、本当に全部できたじゃねえか…」
彼は、どこか信じられないような気持ちで、しかし確かな充実感を胸に呟いた。
夏休み明けの登校日。中村は、見違えるようにスッキリとした表情で教室に現れ、課題もきちんと提出した。
その変貌ぶりに、クラスメイトたちは目を丸くする。
「中村、どうしたんだよ? なんか別人みたいじゃん!」
「へへ、まあな。ちょっと夏休みに、心の修行してきたんだよ、心のな!」
中村は得意げに胸を張った。
凛は、そんな中村の姿と、その成長を陰で支えた真の導きに、改めて深い喜びと感銘を覚えていた。
真の言葉は、いつも的確で、そして温かい。
それはまるで、迷子の旅人にそっと正しい道を示す、頼りになる灯台の光のようだ。
新学期が始まり、教室には少しだけ成長した生徒たちの活気が戻ってきた。
文化祭の準備、本格化する進路選択、そして友人関係の小さな変化…。新たな日常の中で、また誰かが、どうしようもない「苦しみ」や、断ち切れない「執着」といった、より根源的な悩みの淵に立たされることになるのかもしれない。
それは、道真の持つ「八つのカギ」が、さらに深い扉を開くための、新たな試練の始まりを予感させていた。