第13話 「散らばる心と、虫眼鏡の焦点 (前編)」
影山瑠璃が過去の呪縛から解き放たれ、新たな一歩を踏み出した校内作品展から数日後、2年B組の生徒たちは待ちに待った夏休みに突入した。
教室には生徒たちの姿はなく、窓から差し込む強い日差しと、グラウンドから聞こえてくる野球部の掛け声だけが、夏の到来を告げている。
解放感に浸る一方で、生徒たちの手元には分厚い夏休みの課題一覧が配られており、部活動は強化練習期間に入り、3年生は本格的な受験勉強、1・2年生もオープンキャンパスや進路研究など、やるべきことも山積みだった。
クラスの中でも特に活発で、好奇心旺盛な中村健太は、そんな夏休みを誰よりも楽しみにしていた一人だ。
彼のスマートフォンには、友人たちとのバーベキューの予定、話題の映画の公開日、新しくオープンしたゲームセンターの情報などがびっしりと入力されている。
しかしその一方で、机の上には手つかずの宿題の山が築かれ、所属するバスケットボール部の自主練習メニューも壁に貼られたまま。
凛は、夏休み前の教室で、そんな中村が「やっべー、夏休み、秒で終わりそう! アレもコレもやらねーと!」と目を白黒させながら、大量のプリントとスマホのスケジュール帳を交互に見比べていた姿を思い出していた。
夏休みが始まって一週間ほど経ったある日、凛は図書室で偶然、中村に出会った。
彼は数冊の参考書を抱え、空いている席を探していたが、その目はキョロキョロと落ち着きがなく、額には汗が滲んでいる。
「中村君、勉強? 珍しいね」
凛が声をかけると、中村は「お、橘さん! いやー、宿題が全然終わんなくてさー。ヤバいんだよ、マジで!」と大げさに頭を抱えた。
「でも、昨日SNSで花火大会行くって投稿してなかった?」
「あ、うん、それも行く! で、明日は部活の練習試合で、明後日は友達と海! でもって、来週はオープンキャンパスも行かなきゃだし、あ、そうだ、例のゲームの限定イベントも始まんじゃん!」
矢継ぎ早にまくし立てる中村の言葉からは、楽しそうな響きよりも、むしろ何かに追い立てられているような焦りが感じられた。
実際、彼はこの一週間、宿題に数ページ手をつけては他の科目に気を取られ、自主練に出かけてはみたものの集中できず、友人との約束も「ごめん、宿題終わってなくて!」とドタキャンしてしまったりしていたのだ。
「あれもこれも」という気持ちばかりが空回りし、結局何も達成できないまま時間だけが過ぎていくことに、本人も薄々焦りを感じ始めていた。
そんな中村の「空回りっぷり」に、道真も薄々気づいていた。
夏休み前、中村が教室で複数の予定を同時にこなそうとしてパンク寸前だった時、真は彼にこう話しかけていた。
「よお、中村。なんか、一人サーカスみたいなことになってんな。玉乗りしながら火の輪くぐって、皿回しもする、みたいな」
「道! ちょっと今、それどころじゃねえんだって!」
「まあまあ、そう急ぐなよ」
真は、中村が落としそうになったプリントを拾い上げながら言った。
「なあ中村、ジャグリングって見たことあるか? いくつもボールを空中に投げるけど、一度にキャッチするのは、結局一個だけだろ? あれ、全部いっぺんに掴もうとしたら、どうなると思う?」
「え…? そりゃ、全部落っこちるんじゃね?」
「そゆこと。人間の集中力ってのも、案外それに似てるかもしれねえな。アレもコレもって手を出すと、結局どれも中途半端になっちまう。虫眼鏡で太陽の光を集めると紙が燃えるだろ? あれだって、バラバラの光のエネルギーを、たった一点にギュゥゥッ!と集中させるから、スゲェ力が出るんだよな」
真は、指で小さな輪を作り、それを覗き込むような仕草をした。
中村は、真の言葉をその時は「また道が変なこと言ってる」くらいにしか思っていなかった。
しかし、夏休みに入って自分の計画がことごとく破綻し、焦りだけが募っていく中で、ふとその言葉が頭をよぎったのだ。
(一点に集中…か。でも、どれをだよ…全部大事なんだって…)
図書室の席に座り、目の前の参考書を開いたものの、中村の頭の中は相変わらず夏休みの予定と宿題のリストでごった返している。
結局、数分もしないうちにスマホを取り出し、SNSをチェックし始めてしまった。
真は、そんな中村の様子を、図書室の少し離れた席から、いつものように面白そうに、しかしどこか鋭い目で見つめていた。
彼は、夏休みを利用して、近所の「じっちゃん」の古い蔵書を整理する手伝いをしており、その合間に涼みがてら図書室に顔を出していたのだ。
真は、そっと席を立つと、中村の隣に座り、小さな声で囁いた。
「よう、中村。脳内メモリ、完全にオーバーフローしてんぞ。そんな時はな、とりあえず一番デカいファイル一個だけ開いて、あとは全部、一旦『後で見る』フォルダにぶち込んどくんだ」
「うわっ、道! いつの間に…」
「でだ」
真は中村のスマホをそっと取り上げ、電源ボタンを長押ししてスリープ状態にすると、目の前の参考書を指さした。
「目の前の一つの敵に、ありったけのMPぶっ放してみろって。意外とあっさり倒せるかもしれねえぜ? その達成感が、次の敵と戦う勇気になるからよ」
そして、いたずらっぽく笑って付け加えた。
「たまにはさ、目ぇ閉じて、自分の呼吸の音だけ聞いてみろよ。吸ってー、吐いてー、ってな。それだけでも、頭ん中のDJがボリューム少し下げてくれるかもしれねえぜ。心の声、聞こえやすくなるかもな」
真の言葉に、中村は半信半疑ながらも、どこか抗えないものを感じていた。
自分の今の状態が、明らかに非効率で、自分自身を苦しめていることは分かっていたからだ。
(一番デカいファイル…目の前の一つの敵…)
中村は、目の前の数学の参考書をじっと見つめた。
夏休みの課題の中で、最も気が重く、そして最もボリュームのある「ラスボス」だ。
「よし…やってみるか…」
中村は小さく呟くと、真から返してもらったスマホの電源を今度は自らオフにし、カバンにしまった。
そして、数学の最初のページを、ゆっくりと開き始めたのだった。