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第12話 「過去の足音と、今ここにある筆 (後編)」


道真の言葉は、影山瑠璃の心に小さな灯りをともした。


その日から、彼女は真に言われた「今、この瞬間」に意識を向けることを、不器用ながらも少しずつ実践し始めた。


美術室で絵筆を握り、ふと過去のコンクールの失敗や友人の辛辣な言葉が蘇りそうになると、彼女は一度目を閉じ、大きく深呼吸をする。


そして、目の前のキャンバスの質感、絵の具の独特の匂い、筆が紙を擦る微かな音に、そっと意識を集中させた。


「今は、ただ描くだけ…」自分に言い聞かせるように。


通学路でも、変化はあった。


以前はうつむきがちで、周りの景色など目に入っていなかった彼女が、道端に咲く小さな花の色や形をじっと見つめたり、風が木の葉を揺らす音に耳を澄ませたりするようになった。


それは、真が言っていた「昨日とは少しだけ違って見える世界」の発見だった。


劇的に何かが変わったわけではない。それでも、心がほんの少し軽くなり、世界が微かに色づいて見えるような、そんな感覚だった。


橘凛は、そんな影山の小さな変化に気づいていた。


以前よりも俯く時間が減り、時折、窓の外を眺める横顔に穏やかな表情が浮かぶようになったこと。


校内作品展の準備でも、以前のように全てを人任せにするのではなく、自分の作品の展示場所や照明の当たり具合について、控えめながらも意見を言うようになった。


「この作品、こっちの壁の方が光の加減がいいかもしれないね」


凛がそう提案すると、影山は少し考えた後、「うん…ありがとう。そうしてみようかな」と、以前よりもしっかりとした声で答えた。


凛は、影山さんが自分の作品と真摯に向き合おうとしているのを感じ取り、そっとその背中を押すように、準備を手伝った。


ある日、影山が新しい作品の構想がまとまらず、スケッチブックの前でため息をついていると、美術室の窓拭きを手伝っていた(というよりはサボっていた)真が声をかけた。


「よお、影山。なんか難しそうな顔してんな。ラスボスでもデザインしてんのか?」


「道君…ううん、ちょっと、何を描いたらいいか分からなくて…」


「そっか。まあ、そういう時もあるわな」真は窓枠に腰掛けると、外の景色を眺めながら言った。


「何描くか迷ったらさ、とりあえず手を動かしてみるのもアリだぜ。頭でこねくり回すより、手が答えを知ってることもあるからな。俺のじっちゃんがよく言ってたんだ、『心で感じて、手で考えろ』ってな。今、あんたの心が一番ザワザワするもん、あるいは一番ホッとするもん、それを素直に描いてみりゃいいんじゃねえの?」


そして、影山の方を振り返ってニッと笑った。


「過去の失敗はさ、今のあんたが『もっといい絵を描きたい!』って思うための、大事なガソリンなんだよ。燃やしちまえば、あったかい光にもなるし、前に進む力にもなるぜ」


真の言葉は、影山の心にすっと染み渡った。


彼女は新しいスケッチブックを開くと、震える手で鉛筆を握った。


そして、頭で考えるのではなく、心に浮かんでくる断片的なイメージを、ただひたすら紙の上に描き留めていった。


それは、具体的な形にはなっていない、光や影、色や線の集まりだったが、描いているうちに、久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。


過去のトラウマが完全に消え去ったわけではない。


けれど、それにとらわれずに「今、描きたいもの」に没頭できる瞬間が、確かにそこにはあった。


校内作品展の日、影山は自分が最近描いた数点の小さなスケッチと、以前出品する予定だった中学時代の風景画を並べて展示した。


風景画のキャプションには、彼女の今の気持ちを込めた短い言葉が添えられていた。


「あの頃の私へ。ありがとう、そして、さようなら」。


それは過去の自分との決別であり、同時に感謝でもあった。


自分の作品が並ぶ展示スペースを、影山は以前よりもずっと落ち着いた気持ちで眺めていた。


訪れた生徒たちが自分の絵を見て何かを感じ、言葉を交わしている。


その光景を、素直に受け止めることができた。


「影山さんの絵、すごく素敵だね! この色使い、なんだか見てると心が落ち着くよ」


クラスメイトの一人がそう声をかけると、影山ははにかみながらも、しっかりと「ありがとう」と答えた。


その表情は、以前と比べて格段に明るく、穏やかだった。


凛も真も、そんな彼女の姿を温かい目で見守っていた。


作品展の片付けをしている時、影山は凛に小さな声で打ち明けた。


「橘さん…あのね、夏休みのコンクール…やっぱり、挑戦してみようと思うの」


その言葉には、確かな決意が込められていた。


凛は、心からの笑顔で頷いた。


「うん、応援してるよ、影山さん!」


夏休みを目前にした教室は、生徒たちの計画や期待で賑わっていた。


蝉の声が、校庭の木々から力強く響いてくる。


しかし、そんな開放的な雰囲気の中にも、なぜか一つのことに集中できず、そわそわと落ち着かない様子の生徒や、夏休みの課題の多さに早くも心が折れそうになっている生徒の姿も、ちらほらと見受けられた。


それは、また新たな心の迷路の入り口が、彼らの前に現れ始めていることを示唆しているかのようだった。


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